雑駁に言うとハリウッドは、東海岸の興行主から逃れた映画人達が形成した。

 マンガ界が崩壊して構わないかと言うと、ちと構う。未来の雷句誠とも出会いたいのでオレは。崩壊するなら、代替構造が力を得てからにしてほしい。

 問題の根っこは、共にサクヒンを作り上げべき「編集者」が「出版社のサラリーマン」である事、であるように思う。「人気があるから続けて下さい」で、傑作が崩れていく様を我々は何度も見た。「出版社のサラリーマン」は「雑誌発行部数の為に」それをせざるを得ない。

 これは「シチョーリツが全てです」とドラえもんの声優変更を押し通すのに似ている。短期的には視聴率が上がったそうだが、あれは「未来のドラえもんが稼ぎだす利益」を幾ばくか、削いだ。「持続可能なドラえもんビジネスの発展」という点ではいささかマズい。ひらたく言うと、愛がない。

 逆に言えば、過去の編集者の人達は、『日本の出版界の慣例による「美徳」、つまり作家と版元相互の信頼に基づく関係』の為に、カラダを張ってた部分がデカイのだと思う。これは個々の編集者を責めて済む話ではないような気がする。ひらたく言うと、そこまで「モーレツ社員」にはなれませんということではないか。

 「編集者」は漫画家からは「最初の読者」として「共にサクヒンを作り上げてゆく」事を期待される。同時に会社からは「出版社のサラリーマン」として「部数の維持拡大」を期待される。「モーレツ社員」は、このダブルバインドを根性で乗り越えるが、そうでない場合は「社員度」が勝つ。これは、とっくに覚悟完了済みの漫画家から見ると、フラストレーションが高まるだろう。ナニちんたらやってんだ!。

 これを美徳やモラルの問題と取ると*1、個人攻撃や精神論で終わってしまう。社会全体が豊かになってくれば、当世若者気質が変わって行くのは当たり前だ。「モーレツ社員前提のフレームワーク」の方にムリがある。必要なのは「持続可能なマンガ・ビジネスの発展」だ。オレが「未来の雷句誠」のマンガを楽しむ為に。

 「現在の編集者」の2機能は、分離できんのだろうか。出版社と漫画家の間に「独立した編集エージェント」が入って「最初の読者」兼「対・部数の維持拡大バッファ」にあたるシカケは、できんもんだろうか。

 漫画界にも「赤塚プロダクション」みたいな先例はあんだけども。現在でも「藤田-雷句ライン」のように、「作家-アシ」の師弟関係が伝統的な「孵化・育成器」になってる。でも、「アシ」にとって師匠は「マンガの師匠」であり、作家の側も「生涯現役」だし、、、クリエイタなんてやなヤツばっかりだ(おお振りの阿部君ふうに)。

 作家がピッチャーなら、配球組み立てはキャッチャーの仕事。もそっと「作家」が中心からズレたタイプ、、、ひらたく言うと、吉本興行。芸人からは悪口ばっか言われっけど、視聴率より「芸人の育成」を重視する存在。お人好しでなくて、己の利益の為に、そうする存在*2

 とはいえ「常設小屋」は全て大手出版社が握ってる。やすやすと「編集権」を手放しはすまい。同人誌という場はあるが、路上ライブや街のライブハウスのようなものだ。どれほどコミケに人があつまろうと、世の中の大多数はあそこに足を運び、自らの手で選び出す気力を維持できない。

 ここに、フリーマガジンつう最近の流行を乗っけたらどうなるんだろうな。「無料だから碌な記事が無い」とは、とても言えないフリーマグ、集客効果があるので、書店が配布スタンドを置きたがるようなフリーマグ、クライアントが専用の広告を作りたがるようなフリーマグは、既にある。マンガに於いて、既存出版社とは別のところで、コイツが成立する余地があるなら、あるいはそれが代替構造になり得るかもしれない。

 玉座に付くのは「やさしい王様」で良いとしても、「王を殴る男*3」や「守る王」もいないとな。

*1:当事者がそう取るのはやむを得ないと思うが

*2:落語の退潮は、噺家自身が幅を効かせ過ぎた事にあると思う

*3:玉は殴らないでください(ウンコティンティンのお願いです。)