60年積み上げたマンガの演出技法は「紙」が前提になっている。

俺のような紙のマンガで育って来た人間にとって、ネットマンガやケータイマンガはどうにも読みづらく、マンガはできるだけ紙媒体で、本の形で読みたいという希望があります。

 恐らくこれは個人的な感覚でも、アタマの固いレトロ趣味でもなく、使い得る演出技法の差による。視野角とアスペクト(固定紙サイズ)、コマ割り(視線誘導)、解像度、ページ送りに、マハクの演出。これらは現在のデジタル・デバイス上では著しい制限を受ける。以下、ざっと思いつきを*1

マンガの演出技法(通常は自覚的に読むとツマラナイ)

視野角とアスペクト(固定紙サイズ)

 雑誌であれ、単行本であれ、文庫版であれ、マンガ開いて読んでる時の視界に占める"スクリーン"の割合は、一定のハズだ(視野角度*2)。当たり前だが"スクリーン"の縦横比(アスペクト)も固定。これは読み手の没入度に大きく関わる。
 物理サイズが多様なネット/ケータイでは、読み手の視野角度とアスペクトは多彩だ。したがって個々人の没入度も多彩になる。
 現在の描き手はそれを想定し難い。その結果、種々の演出技法の幅が狭まる。例えばマンガ雑誌がぺらぺらであれば、読んだページを折り返してコンパクトに読めるが(読み手バリアブル視角)、島本和彦さんが絶体絶命の危機に!*3

コマ割り(視線誘導)

 手塚治虫藤子不二雄あたりのラインは、「映画を見た時の感覚」をマンガでやるにはどうすれば!がテーマの一つだった。次世代は「アニメを見た時の感覚」をマンガでやるにはどうすれば!がテーマの一つだった。マンガ家は、コマの大小、カタチ、並び方を使い分ける事で;

  • 視野角の微調整ができる(可変視野角)。
  • 時間軸の調整ができる(可変時間軸。スローモーション、早送り、カット挿入、、、)
  • 視線誘導ができる(一定以上の固定視野角が不可欠)。

※「ネット/ケータイサイトを見た時の感覚」をマンガでやるにはどうすれば!がテーマの一つになってるかどうかは不詳。士郎正宗の「欄外」が面白かったのは、"Webサーフィン"と無縁では無いと思う*4

解像度(印刷物の解像度はモニタを凌ぐ)

 現実に網膜に入ってくる物理解像度は、印刷物とモニタで全然違う。Gペンとマルペンの違いは、絵の雰囲気に大きく影響する。「モニタ前提」は、ペンの入り抜き、集中線、カケアミ、スクリーントーンなど、基本的な技法のレベルで、表現の幅(情報量)が狭まる*5

ページ送り

 ページをめくると驚愕の展開!(またはありえねぇギャグ)。これは「視線誘導」と「可変視角/アスペクト」と「可変時間軸」のあわせ技だと思うのだが、「スクロール」では使えない*6。「次ページ読み込み」だと、現状では描き手も読み手もテンポ(時間軸)をコントロールできない。「媒体の都合」がサクヒンに介入してくるのは大迷惑だ。

マハク

 コマとコマのスキマ。端的には『編集王』のマンガ黎明篇では、マハクが、スキマ無く紙のへりまで全部黒塗りだった。「これは過去の話なんですよ」と強調していたのだと思う。「読み手バリアブル視角」では、これは広過ぎてうざかったり、せま過ぎて、表現としては使いにくい手だと思う。

※これらは全て、ど素人のオレでも、インパクトがあったり分かりやすかったりするもので、もっと意識させない技法が、佃煮にするほどあるハズ。

「ネットマンガの面白さ」は未知数

 ネットやケータイでもこのへんを突破する「マ者」が出てくるとは思う。

 しかし、それら「ネットマンガの面白さ」を素直に楽しめるのは、やはり物心ついた頃からネット/ケータイに親しんでる世代だろうし、さらにそれをコトバで語れるのは、たぶん団塊ジュニアジュニア世代(誤字ぢゃないよ。夏目房之介さんのお孫さんあたりの意*7)になる。また、そうした「ネットマンガ」が洗練されていけば、「マンガ」とは認識できないものにならざるを得ない。それはそれで良い事だし、別にそれで構わないと思う。むしろそーでなきゃツマラン*8

 どうせ現時点で生きてる連中はみな『最近のマンガはコマ番号が無いから読みにくくてねぇ』とぼやくご老人になるのだ。紙のマンガしか知らないなら、如何に紙で勝負するかに全力投入すりゃいい。若い芽など摘んでしまえ*9

付記:マ界の現状

 自分の持論は「マンガ売るならまず客をマンガ漬けに」です(外野ですが)。

 したがって、「現在のマ界」は以下のように見ています。

1.「雑誌の落ち込み」は、マンガ界でおきるトラブルの背景要因のひとつ、ではなく「直接の原因」。
  1. 部数が落ちると、社員編集者にかかる「部数拡大バイアス」が増える。
  2. 部数が伸びないと、社員編集者にかかる「二次利用収益拡大バイアス」が増える。
  3. 二次利用収益拡大バイアス」が強まると、、、、

 「とにかく人気ある限り続けてください」が増える。「ストーリーテラー」より「世界観提示者」を求める。ぼくの考えた魔物コンテストやりましょうよ!可愛いキャラ出すとぬいぐるみになるんですよ!女の子がいっぱい出るシチュエーションで行きましょうよ!。え?ザケルって手からでるんでしょ?(読んでねぇダロオマエ)。
 このやうに「強すぎる二次利用バイアス」は根源作品への愛を損ねます。愛のない二次利用の問題点は「得べかりし利益」が低い事です。ちなみに愛とは、魅力を把握する事です。

2.電車乗るとみんな聖徳太子みてぇな板掲げてるのは「マンガ*誌*の読者離れ」。

 マンガが負けているのではなく、マンガの頒布形態が負けているに過ぎません。「読者のマンガ離れ」では曖昧すぎる上に、脳みそが被害者意識で汚染されます。「娯楽の多様化」などいつの時代でもあることです。「大衆が望むものは三つある。新奇!新奇!そして新奇だ!IE用)」というバーナムの台詞は、ナカミだけぢゃないはずです。

3.マンガの頒布形態の調整。

 ゆえに「マンガの頒布形態の調整」は「モーレツ社員前提のフレームワークの調整」より優先的に(少なくとも併行で)進めべき課題と考えます。これは「独立プロデューサー」だけでは済まない事です。
 上記1番の「社員編集者」を単に「独立プロデューサー」に置き換えた場合、「二次利用収益拡大バイアス」は同じ結果をもたらすか、むしろ過激化するでしょう。端的には、マンガ業界全体として「著作物二次利用にかかる法的問題の解決コスト」が上がります。このコストは社員編集者であれば内線一本で済みます。会社全体の負担として曖昧に混ぜ込まれるからです。しかし、独立プロデューサーではきっちり顕在化し、個別具体的なサービス料が乗っかってきますから、個々のサクヒンに掛かる「経費回収タスクの重圧」は、上がります。

4.出版業界のみなさんに考えて頂きたいこと。

 「モーレツ社員前提のフレームワーク」が孕む種々の問題は調整されなければなりませんが、「頒布形態の調整(下流の調整)」を欠いたまま制作工程を論じる(サクヒンの質的向上=上流の調整だけにフォーカスする)のは、縮小するパイを巡る取り分争いです。それは動機の如何に関わらず、マンガ界の崩壊にトドメを刺すでしょう。

 マンガ誌の主役が月刊誌から週刊誌に移ったのは、1959〜1968の範囲。これは、世相が大きく変化したモーレツ全盛期とほぼ一致します(高度経済成長の区間)。「マ界」は、すくなくとも「月刊→週刊化」に匹敵する「頒布形態の調整」が必要な時期を迎えていると思います。

 「マンガ売るならまず客をマンガ漬けに」です。「有料のマンガ誌」がその唯一の手段とは限りません。発行コストを回収した上で客をマンガ漬けにできるなら、マンガ喫茶だろうがフリーペーパーだろうが、、、、あたしゃ未来の雷句誠とも出会えりゃそれでいいんで(アシハナっぽく)。

*1:プロの方から見ればバランスの悪い内容だと思います

*2:なんぶん、とかの角度で測る。

*3:そうなったらなったでネタにするとは思うけど

*4:いや実際の"Webサーフィン"より先なワケだが、密度の高い関連情報が芋づる式にズルズルっと来る感覚?みたいな?ちなみにホッテントリやニュースサイトの面白さは"Webザッピング"と呼び区別してます。

*5:おそらく「モニタに最適化された絵」は『どらえもん最終回』。あれがそのまま出版できるレベルまで描き込んであれば、さして話題にならなかったように思う。モニタでは情報量が多過ぎて、ストーリーラインへの集中を削がれたはずだ。自覚的にあのレベルに留めたんぢゃねぇかとも思う

*6:ネットマンガでは、これを逆手にとった技法が要ると思う

*7:と書いて「段階」になってた事に気づいた。今。

*8:手塚治虫以前の「マンガ」だって「挿絵よみもの」の発展系だ。

*9:麦は踏まれて強くなるのだ