ゴーリーゴースト

 単一の要素のみで構成されたシステムは一つのウィルス*1で死滅する。現時点の地上波無料放送が圧倒的な「基幹放送」である事は事実だが、「未来のテレビ」もそうあるべきか?
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 NHK技研による「未来のテレビ」研究は1965、東京五輪の翌年に開始している。基礎研究の方向性は二つ。「立体テレビ」と「高視野角テレビ」*2。後者がのちの「ハイビジョン」だが、ここで決まった縦1000本あまりの走査線本数は「視力1.0の人が画面高の3倍の距離で見た時に走査線が見えなくなる数*3」という理由で決まっている。

 つまり「本来のハイビジョン」の第一目標は、視野角ないし臨場感の拡大にあり、高解像度化、高精細感化は副産物に過ぎない。また同時に、この段階*4での大画面志向は、想定視聴形態が「家族揃ってお茶の間で」のままと思われる。

 その後、80年代を迎えるまでに、日本の家電メーカーは世界を制した。侵攻と呼ぶ人もある。国内に激しい競争があり、企業買収を嫌う風土がある以上、シェア拡大すなわちコストダウンによる価格性能比の向上には、海外市場をぶんどるしか無い。この過程でRCAは消失し、GEやウェスティングハウスはテレビ製造から撤退するなど、大規模なリストラクチャリング(稼ぐ手段の考え直し)を迫られている*5。先方から見れば、新手の戦争にも見えただろう。

 誰も追いつけないほど素晴らしい「ハイビジョン」が海外にお披露目されたのは80年代初頭。「ジャパン・バッシング」のど真ん中。映像制作に従事する人々はその美しさを絶賛したが、産業政策を預かる人々はそうでは無かった。ネットのネの字も無い時代、コクミンの情報インフラを外国に握られてはマズい。米国にも欧州にも意地がある。

 彼らが持ち出したのは「テレビ放送のデジタル化」。そのための世界標準規格策定。アナログのテレビ放送をデジタル化すれば、莫大な無線帯域が空く。世界中で、それを使ったあたらしい事業が花開くに違いない、という未来予想*6。つまり「デジタルテレビ」の本質は「お前ら立ち退け」であり「未来のテレビ」の対立項だ。

 デジタルテレビに走査線は不可欠ではない。走査線(インターレース信号*7)はアナログの映像圧縮技法だ。アナログ放送網を全て置き換える「テレビのデジタル化」にはオカネがかかる。走査線が不要なら、縦1000本もの解像度は不必要なコストではないか?720ピクセルでも充分ではないか?。また液晶であれプラズマであれ、ブラウン管以外のキカイは原理的に走査線を持たないインターレース信号を規格化すれば、移行コストが不必要に高くならないか?規格化するのはプログレッシブ信号*8だけで充分ではないか?

 「アナログ・ハイビジョン」対「デジタルテレビ」の対立は80年代を通じて続いたが、その間にも世間では「これからはデジタルだ」という空気が広がって行った。NHK及び郵政省(当時)の間に「アナログ・ハイビジョンはもうダメだ」という「暗黙の了解/公然の秘密」が行き渡ったのは、90年代も半ばを過ぎてからだ。*9

 ここに至り「デジタル・ハイビジョン」というコトバが登場する。「未来のテレビはデジタルです!」という認識は世界共通だが、「デジタルテレビはハイビジョン!」という認識は、日本固有のものだ。例えば英国のデジタルテレビは、DVDと同じサイズのSD放送。
 また日本の「地上波デジタル・ハイビジョン規格」は恐らく世界で唯一、プログレッシブ信号を認めていない。「デジタル」とインターレースは相性が悪い。デジタルビデオカメラのCCDは、映像をデジカメ同様のプログレッシブ信号で捉えるため、別途インターレース化する回路が必要になる。また液晶であれプラズマであれ、ブラウン管以外のキカイがインターレース信号をキレイに表示するには、デインターレース回路が必要になる。
 撮影カメラ、編集機材、送信設備、受信装置、録画機器、、、全てを切り替えるに当たって、「日本の地デジ」はおそらく世界で最も移行コスト(社会総コスト)が高いものの一つだろう。

 なお、ここまでに於いて、B-CASコピワンにかかる社会的コストは考慮していない。乱立する地方局、すなわち広域放送局の不在による多重設備投資の妥当性も考慮していない。総務省が電波帯域オークションを実施せず、「ただ同然」で既存の放送局に電波使用権を再配分している問題も、考慮していない。

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 現在NHKは「ウルトラハイビジョン」というものに力を入れている。

  • ハイビジョン(1,920×1,080):200万画素
  • 4Kシネマ(3,840×2,160):830万画素 ←映画館用
  • ウルトラハイビジョン(7,680×4,320):3320万画素

 これで2025年のテレビ放送を想定し、前回の教訓から、欧州や米国との協調に力を入れていると言う。まるで東京五輪の亡霊だ。

*1:フリーオ一個で大騒ぎ

*2:この二つに収束する前に「テレビっていったいなんだろう?」というかなり本質的な模索が存在したと思われる…うらやましい。

*3:走査線一本の幅が視角に占める割合が一分以下とか、なんかそんなかんじ

*4:概ね70年代中盤に基礎フォーマットが固まっている

*5:その前の段階で工場労働者にレイオフ一時帰休)というしわ寄せが出ている

*6:大きく言えば歴史認識とか、グランドデザインとか、国家百年の大計とか、戦略とか、でも良い。

*7:一こまをスダレ状に切り刻んで、半分だけ送信する

*8:スダレ状に切り刻んでない、ふつうのデジカメで撮ったような映像信号をそのまま送信する

*9:それ以前に「デジタル転進」を唱えた人々の多くは、しかるべき地位を去っている。全員が納得するまで戦略転換できないというのは「和を以て尊しと為す」のマズい面だと思う。その間にも「バンザイ突撃」や「玉砕」で随分と無駄金を使っている。例えば90年代中盤のPlayStation発売当初、試遊台は横長のブラウン管であり、家電屋の店頭でも各社のハイエンドモデルは横長ブラウン管だった。ソニーに至っては上から下までフルラインナップで横長ブラウン管を用意し、その全てが2年余りで消えた。しかし、もちろん、こうした無駄の責任を取った者は居ない。「みんなで決めた事」だから。本文では敢えてNHK及び旧郵政と書いたが「いやいやあいつらだって」という「証言」はいくらでも出てくるだろう。昭和史もよく似ている。