「創作物の真似をする人」の問題。

自分は、「表現としてフツーであれば、実際の行為としても一般化してゆく」という仮説には、一定の説得力があると考えています。例えば、「AVにおける顔射表現」は、国内では80年代半ばから一般化したもののようですが、「東南アジアから来た嫁さんにやろうとして死ぬ程嫌がられた」的な問題を「ありそうな話だ」と思うので。
もちろんそれはヒデぇ話なのですが、「創作物の真似」呼ばわりは、ちと言い過ぎでないの?みたいな。
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ビジュアル表現を見る限り、この本が陵辱・調教系エロゲの台頭、という「時流」と無縁である事は考えにくい。内容はマジメなガイドのようだが、その事は関係ない。読み手の集中力を増す為に、取っ付きやすい外装を選択するのは真剣さの現れだが、その「取っ付きやすい外装」は、「時流」に依る。

もちろん、「取っ付いた」購入者の多くは「読み物」として楽しむだけで、実践の教科書として活用する比率は稀だろう。またその中から事故や犯罪に至る比率は、さらに稀であろう。しかし、ドライバーが増えれば交通事故は増えるし、素人ほどエクストリームな事をやりたがる。

「それは困る!」という声は、そうした「時流そのもの」が厭なのだ。そして、そうした声は、「誰もが安心に暮らせる社会」を維持するために、他を以て代え難い役割を果たしている。「科学的な証明」があれば説得力が増す事は事実だが、無いから一切信じない、という態度ほど「非科学的」なものはない*1

ただし、「創作物の真似をする人」の自意識は、「真似」などではない。大げさに言えば彼らは、「自分の人生をクリエイト」しているのだ。あいだをとって「摂取した情報にインスパイアーされて、自分の人生を二次創作」している。

これは「人生レールに乗ってます度」の高い脳ほど、理解も想像もしにくい。したがって「創作物の真似をする人」呼ばわりするワケだが、これは「二次創作者」にとっても、また大多数を占める「読み物」として楽しむだけの層にとっても、最もガマンのならない言い草のひとつだろう。

ぶっちゃけ「外部入力」に左右されない人間など居ない。二次創作でない人生など無い。純粋100%混じりっけナシのオリジナル人生など、誰にも理解も想像もできないだろう。

また、交通事故があるからクルマなど禁止してしまへ。というのが乱暴であるように、「創作物の真似をする人」が出るからジャンルごと禁止してしまへ。というのも暴論である。なにより「レールに乗ってます度」の高い人生ほど、面白みが薄い。

そこで。警察庁認可のSM教習所を設置する。というのはどうか?まずは学科を修めて実技に進み、仮免とったら路上です。なお、拘束教習は別料金を頂きます。

、、、それなんて(略。