花岡信昭さんはどこに向かっているのか

リード

鳩山政権は総選挙圧勝を背景に、かなり無理をしているように見える。 「政治主導」は結構 だが、その美名のもとに何でも許されると勘違いしているのだとすれば、これは真っ向から指摘しておかなくてはなるまい。

もしも官僚の禄を食む人々が、人として、あるいは一国民として言わずに居れないことがあるなら、それはよろしく官職を辞し、一介の素国民の立場で行うべきものである

自民政権末期、「自信を持って時の政権に弓ひく官僚の記者会見」というものを我々は見た。選挙期間中、民主の政策に疑問を呈する官僚のリークらしき情報を、我々は幾度も見た

もしも民主党が、教科書的な議会制民主主義を目指すなら、 こうした事ども は許されるべきではない。 こうした事ども は、 国民が保持する主権の侵害につながるものであり、統治権干犯の色彩が濃い

なぜなら官僚は「公の僕」であって、国民の信任を受けた存在ではないからだ。彼らは「国民の選良」に従う事のみを期待されているからだ。教科書的な民主制の下では、「官僚」は選挙で選ばれた「国民の選良」に服す手足である。専門的な立場から「行政責任者」に助言する事は重要な職責だが、 「自分の考え」を「行政責任者」や、まして国民に語る事は許されない。それが政治的な色彩をおびる場合は尚更である

面従腹背で「国民の選良」を統御する など言語道断である。

ばかみたいな話だが、 「政治主導」は、「政治的な中立」や「不偏不党」とは対極にあるものだ。民主党の目標が「政治主導」であるならば、「官僚の記者会見禁止」は当然の帰結だ。 むしろ「官僚のメディアとの接触禁止」までやらねばおかしい

もちろん、原理主義にはすげぇ欠陥がある。もしもCIAの官僚が自由なメディアとの接触を許されていたら、アブグレイブ刑務所は計画段階で潰れていた可能性がある。また、もしも英国首相府の官僚が自由なメディアとの接触を許されていたら、大量破壊兵器報告書の「SexUp」は事前に暴かれ、英国は対イラク戦に参戦しなかった可能性がある。

もちろん、自分はアブグレイブで行われた事や、SexUpを容認するものではない。これらは事後よりも、事前にメディアに暴かれ、防がれるべきだった事態である。だがしかし、リークをしなかった両国の官僚達は、「公僕の鑑」といえる。

  彼らは、自分の発言、行為、そしてその結果に対して責任を負う事を許されない。すべての責任は「行政責任者」に在る。ひいては彼人を選んだ国民に在る。ポピュリズムの補正を官僚に委ね続ける限り、我々が民主制の成熟を手にする事はないだろう。

前回コラムに引き続いたテーマで恐縮だが、どうも政治報道のあり方にかかわる重大な問題をはらんでいるようにも見受けられるので、あえて続報を。

「官僚の記者会見は禁止する」という政権の方針が、基本的におかしいことは前回も指摘した 。この指示をまともに受けて、気象庁長官の定例記者会見もやめたというのだから、官僚の世界は不可解きわまりない。 そういう体質だから、政治の側からつけ込まれることになる 。これまで、その必要性を重視して記者会見を行ってきたのであるならば、 なぜもっと自信を持てないのか

鳩山政権は閣僚などの記者会見をオープンなかたちとすることも考えているらしい。かつて、小沢一郎幹事長は、代表時代に週刊誌などにも開放したかたちの記者会見を実施したことがある。これを受け継ごうというわけか。小沢氏は「記者会見はサービスだ」とも言ってのけた。

■メディアとフリーランスライターの役割は異なっている。

記者会見の開放方針は、特定の媒体に定期的に執筆しているようなライターや著名ブロガーなどの「個人」を対象として想定しているようだ。記者クラブ加盟社以外にも開放しようというわけで、その限りにおいては結構なことなのかもしれない。

だが、 現在の記者クラブに所属しているメディアが日常的に行っていることと、フリーライターやブロガーらの仕事は性格が違う 記者クラブ所属のメディアは、その公的機関が持つ「第一次情報」に密着取材し、報道しているのである

それは、単にかれらが記者クラブから排除されているからに他ならない。
この作業は、「記者クラブ加盟組織」でなくても可能だ。

そこには、おのずと「記者クラブとしての決まりごと」が出てくる。 分厚い白書や調査報告書のたぐいなどは、精緻な読み込みや関連取材、執筆作業にある程度の時間が必要で、「解禁日時の設定」といったことが行われる。 筆者の体験では、政治資金収支報告書などは1週間前の事前発表が慣例だった

日々「第一次情報」に密着取材しているのなら、それらの作業にかかる時間は、過去の蓄積で大いに圧縮できる筈である。そこには当然、個人差があるのが自然である。誘拐事件の報道協定ならいざ知らず。どこに、「一週間のお勉強じかん」をとってもらう必要があるのか?。

政治資金収支報告書 は素で公開したところで読める人にはすいすい読めるものである(野党の議員や元政治家の秘書など)。お心遣いはありがたいが、 「政治部の記者が、一週間留め置く慣例」 というのは、あらぬ嫌疑を受けがちではないか?

記者クラブを完全開放して、そういう「しばり」が通用しなくなると、中途半端なかたちで報じなくてはならない記者クラブの「報道協定」は国民の知る権利を保証するうえでの「知恵」なのだが、一般にはどこまで理解してもらえるか。

そういうしばりが通じなくなると、「報道の自由競争」が始まる。

これは、国民が受け取り得る情報の質的向上が期待できるということだ。

中途半端がイヤなら、個人の能力や、判断に応じて、いくらでも資料の精緻な読み込みや追加取材、執筆作業に時間をかければ良い。

官僚の記者会見廃止と閣僚会見の開放はどこでどうつながっているのか、よく見えてこない私見を許してもらえば、この政権は、「言論、表現、報道の自由」をとことん重視するイメージを打ち出すほうがいいのではないかと思うのだが、いったい、どちらを向いているのか。

頭書の通り、民主党は「政治主導・官僚依存の打破」を一つ念仏のように唱えている。
 これは「教科書的な意味での民主制」への移行である。
 その一環として「官僚が政治に容喙する機会の減殺」が存在する。
 私見を許してもらえば、いったいどこを見ているのか。

■メディアは「もの」に過ぎず、ジャーナリストは「ひと」である

■日本の取材開放度は米国よりも高い

そこで、またぞろ、記者クラブの「閉鎖性」に対する批判が出てきている。記者クラブ批判が高まるということであれば、長い間、メディアの世界に生きてきたものとして、無関心ではいられない。日本の記者クラブは閉鎖的だという主張は完璧な間違いである。

アメリカのホワイトハウスで記者証を取得しようとすると、徹底的に身辺調査が行われ、書いてきた記事を検証され、指紋まで取られる。そのため記者証取得には何カ月もかかる。 大統領に近づけるわけだから、少しでも挙動不審なものは排除しなければならない。国家を代表する大統領の安全が最優先されるということをメディア側も理解している。

セキュリティ問題に関して言えば、「相互監視・連帯責任の村社会」が、「一人一人を見極めねばならない社会」よりローコストで済むのはあたりまえである。

また「相互監視・連帯責任の村社会」が、「ヨソモノに対して閉鎖的に見える」のも同様である。それに対して『日本の記者クラブは閉鎖的だという主張は完璧な間違い』と言い切るのは、あまりにも閉鎖的な姿勢ではないだろうか。

記者クラブを解放する場合、国庫のセキュリティコストがうなぎ上ることは確実だ。ただし、そのコストは、現状より透明化される可能性が高い

日本の場合はどうか。 内閣記者会には、 日本新聞協会加盟の新聞社、通信社、放送会社に所属してさえすれば 、簡単に入会できる。その社の責任において、入退会が頻繁に行われる むろん、警備公安当局はひそかに記者の思想傾向の調査などをやっているのだろうが、 これが表に出ることはない

内閣記者会には外国メディアも加盟している。その開放度はアメリカなどよりもはるかに高いといっていい。その 実態を知らないのか、知っていてもあえて無視するのか 外国メディアは日本の記者クラブ制度の閉鎖性ばかり非難する

それは現場を知る人の見解として重視すべき事だが、それが 外国メディアの納得をまったく得られていない事実も同様に重いのではないだろうか

日本に駐在する諸外国の記者さんたちは『実態を知らないのか、知っていてもあえて無視』しているのか、それとも「 この村の掟 ジャーナリズムの本質に関わる」 と考えているのか。興味深いところだ。

自分の理解では、 対抗意見を非難と呼ぶ者はジャーナリストではなく、一方当事者だ 。比べて、判じるための材料を供してくれる人をジャーナリストと私は呼びたい。

この傾向は国内のメディア論の学者などにも見られる。記者クラブを「諸悪の根源」視するような態度だ。これもまた、 実態無視の暴論といわなくてはならない


記者クラブ制度は国民の知る権利を担保している

新聞社在勤中に、新聞協会の記者クラブ問題小委員会のメンバーとして「記者クラブ見解」を作成したことがある 。以前は、記者クラブを「親睦組織」と規定していたのだが、それを「公的機関の情報公開、説明責任という責務」と、メディア側の「国民の知る権利を担保する責務」が重なりあう場に位置するといった表現に改めた。

イ)左記は、1997年12月の改訂を指すと思われる:

日本新聞協会は記者クラブを公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする「取材のための拠点」と改める。 -[1]

ロ)ソレ以前のものは1949年10月まで遡る:

日本新聞協会は『記者クラブに関する方針』を作成し、記者クラブを「親睦社交を目的として組織するものとし 取材上の問題にはいっさい関与せぬこと 」と規定。 - [1]

上記に見える「しばり」や「慣例」は、この規定に明白に違背する。97年の改訂は、ほぼ半世紀に渡って続いた矛盾の追認 という事だろうか。そもそも記者クラブは任意団体であり、日本新聞協会に指揮権はない。またこの記述では1997改訂の契機に「官→報接待疑惑」があった事が欠けている[2]。

ハ)さらに遡ると1941年5月:
  新聞統制機関「日本新聞連盟」の発足に伴い、記者クラブの数は1/3に減らされ、クラブの自治が禁止。 - [1]

livedoor ニュース - マスコミの戦争責任を考える(中) によると、現在に繋がる情報カルテルは、この時点で成立している。

・個人単位のクラブ加入を廃止
 ・加入資格を新聞社・通信社に制限
 ・加入新聞社数を制限

[1]- 記者クラブ - 歴史 - Wikipedia
[2]- 記者クラブ - 特色 - 任意団体- Wikipedia

 親睦組織という位置づけでは、公的機関の側が記者クラブの部屋を提供するといったことの説明がつかないためである

という事は、この改定のおかげで、記者クラブの部屋代は従前どおりの公費負担が続いている。という解釈が可能だ。これも97年の改訂が現状追認目的だった事を示唆する。

たしかに、かなり前までは、 電話代やコピー代など諸経費を公的機関の側に負担させるといったことも行われていたが、さすがに、いまではそういう不明朗なことは払拭された

不明朗な「諸経費の税負担」が 払拭されたのは、フリージャーナリスト諸氏の取材で明らかにされ、批判が高まった結果である。(例: 岩瀬達哉 - Wikipedia )。とくに「国民の知る権利を保障する機関」が、自浄能力を発揮して「国民の知る権利」にきびしく応えたという評価は見ない。

その後新聞社や通信社が払うようになった経費が、彼らが使う分に見合った額か否かについては、追跡されべきものである。さらに 半世紀に渡って不明朗に国庫から支出された経費の返納 も、各社応分に行ってしかるべきと考える。

というとイヤにねちっこいが、それやらんと「官僚が個人タクシーの運転手さんに缶ビール貰ってた問題」などは、報道する資格を疑われるだろう。

記者クラブに安住して、公的機関が垂れ流す情報をそのまま報道している「横並び体質」を批判する向きもある。これも実態とは違う。記者クラブで発表ものの記事ばかり書いていて仕事している気になっているような記者は、いまや淘汰されつつある。経営状況が厳しいメディアがそういう記者に高給を与えていてすむわけがない。

問題は「記者クラブ非加盟では記者会見に出れない」という事実であり、それが大手マスコミのカルテルとして機能していると言う事だ。カルテル内の競争など誇られても困る。

競争が制限されているなら「報道ゼネコン」はどんなに厳しくても、ボーナスカット程度で済む。希望退職の募集まで踏み込まずに済む。「業務の合理化」に真剣になれない。

自分はどちらかといえば、ネットでフリージャーナリストの「コレまでにない視点」に触れる機会が増えた事を、良い事だなぁと思っている。彼らがより充実した記事を書けるようになったら、面白いなぁと思う。その中で、記者クラブが彼らの記者会見参加を拒み続けている事実は、「報道ゼネコンの談合カルテル」と呼ぶのがしっくりくると思う。

たしかに、取材というのは「一対一」が原則であるのはいうまでもない。だが、政治取材の現場ではこれにも限界がある。「夜討ち朝駆け」が主体になるのだが、当然、各社の記者と一緒になる。同じ話を聞いていても、ピンとくるかどうかで記者の質が試されることにもなる。ときには、いったん、お開きになって相手の家をそろって出た後、車で家のまわりを一回りして帰ったように見せかけ、もう一度、上がりこむといった芸当も必要になる。

たしかに「夜討ち朝駆け」や、「韜晦リテラシー」、「相手の意表を突く」、「同業者を出し抜くために工夫を重ねる」などが必要となる頻度は桁違いであるかもしれない。

しかしそれらは、日本的なコミュニケーションが通用する範囲で有効な事の多い戦術であり、本質的には、どうというほどのものではない。それに、、、そういう芸当でもなきゃ差別化できない状態を「横並び」て言うと思うんだけど。

政治取材には「記者会見」と「懇談」がつきものだ。会見は相手の名前を特定して報道していいケースである。 「懇談」というのは、「政府首脳」「政府筋」「○○省首脳」などとして、発言者をぼかして扱うものだ 会見開放となると、いったいどこまでオープンにするかが現実問題として厄介なことに なる。

なぜ、「懇談」が必要か。 その問題をめぐるさまざまな事情、背景などを、ざっくばらんに 聞き出すためである。記者会見という 公開の場では言えないことも、懇談の場では可能に なる。 政治家や官僚の側もそのあたりの呼吸を心得ていて 、「ここまでは会見でしゃべる。ここから先は懇談にまわす」という対応をする。

「相手の名前を特定して報道していいケース」は、相手が名前を報道して欲しいケースである。「発言者をぼかして扱うものだ」なケースは、 相手が名前を特定されたくないケース である

これにより、以下のような戦法が可能になる。
  ・「 匿名でのアドバルーン
  ・「 匿名での世論誘導
  ・「 匿名の同趣旨の発言が同時多発的に紙面を覆い、なんかの空気が情勢されてゆく

政治家や官僚にこうした戦法を許すなら、後から発言者の政治責任結果責任を問う事は、構造的に困難になる。

したがって、原則的に「 その問題をめぐるさまざまな事情、背景など」は、公の記者会見、国会審議、委員会、証人喚問、公聴会、などなど、議事堂の論戦において明らかにされべきものである

「オフレコでざっくばらんに語った事が間違いで、それがちょっと世論を動かしちゃったんだけど、誰も責任を取らない」というのは、ドコの2chですかそれはという感じだ。

あまつさえ、「発言者が特定されて晒しあげ食らった挙句、メモあわせの結果、『言ってないという記憶になった』」に至っては、脳をハックされてるぞ!という感じだ。それぢゃ職責に耐えんだろう。ふつー。

「そのあたりの呼吸」が、うまく伝承されていない なら「懇談」は害のほうが大きい。一度原則に巻き戻すべきだ。

これも長い間かけて、 政治取材の現場でつちかわれた「知恵」 である。これによって、読者、視聴者には、より深い情報が伝えられることになる。政治は建前と本音の世界だが、こうした取材手法によって、ぎりぎりまで本音ベースの背景説明が可能になるわけだ。

「永年の知恵」を否定はしない 。むしろ原則論なぞよりずっと面白く読めるし、それをじわじわと形成してきた人々の努力は尊いものであると思う。しかし上記のようなマイナス、主にまとわりつくような不透明感が存在する事も考慮しなければならない。

差引勘定が損になるかオトクになるかは、人により意見が異なり得るが、 万一、既存マスコミが「懇親グループによるプロパガンダ」に堕した場合、現状ではチェックするシカケも「知恵」も存在しない

したがって自分としては以下のように考える。

原則的には、公人に、匿名で、公開の場では言えないことを、特定の政策を進める目的で発信し得る場を、構造的、かつ慣習的に与えるべきでない。それはメディアが自らメディア・コントロールの場を提供するという事であり、ジャーナリズムの自傷行為であり、民主制の敵である。

「懇談取材」は必ずしも否定しない。しかし 「発言者をぼかしたニュース」は、断然撃滅あるのみだ 。その上で、ジャーナリズムは「あらたな知恵」を培ってゆくべきである。

記者クラブは国民の知る権利をカクレミノにしている。

■ネットの時代になってもメディアの重要性は変わらない

日常、なにげなく読んでいる新聞記事には、そういう取材現場の蓄積があることを知ってほしいとも思う。「ニュースはネットで見るから、新聞はいらない」という声も少なくないが、これも重大な事実誤認だ。

ネットにニュースを提供しているのは、新聞社や通信社なのである。ネット自体が第一次情報の取材体制を持っているわけではない。筆者は仕事の必要上、全国紙全紙を購読して毎日、目を通しているが、その一方でネットニュースも点検する。ネットでどう扱われているかを知ることも重要な示唆を与えてくれるからだ。

 鳩山政権に要望したいのは、そうしたメディア状況を踏まえたうえで、「取材、報道の自由」をどこまでも守り通す構えを取ってほしいということだ。官房長官の初記者会見で「言論統制をするのか」といった趣旨の質問が飛び出すようでは、民主党政権の名が泣く。取材の機会は多ければ多いほどいい。それが、国民の知る権利の拡充につながるのである

人間が群れや社会をつくる事をやめない限り、コミュニケーションと、それを乗せるメディアが無くなる事はないだろう。しかし、そのありようは常に変化してゆく。

印刷技術が社会に最適化され、また社会が技術に最適化されてゆく過程で、写本を生業にしていた修道僧のクチは減り、彼らが長年心血を注いできた技は絶えた。一方で、聖書はより多くの人々の目に触れるところとなり、教会の権威は問い直され、新教が生まれ、現在われわれは、バチカンが発禁にした書物も手にする事ができるようになっている。

09Q3現在、日本のネットが第一次情報の取材体制を持たないのは数多くの記者会見が、マスコミ・カルテルの占有下にあるからである。

その結果。既存メディアにとって都合の悪い情報は、一次情報の時点でスクリーニングされ、あるいは表現を弱められることがありがちである。おそらくは、無自覚に。あるいは怠惰の故に、もしくは、「我々は国民の知る権利の為に、より重要な情報を選び取る責務を負っている!」という、崇高なる信念の故に。

これは、コクミン・総インフォメーション・ダイバーシチー、(ようするに情報の多様性)という観点からは、望ましく無い。

自分が鳩山政権に期待しているのは、そうしたマスコミの状況を踏まえた上で、「取材、報道の民主化」に着手してほしいということだ。首相就任後の初会見で「いきなり公約破棄か」といった趣旨の記事がネットを覆うようでは、政権交代の名が廃る。記事の書き手は多彩であれば多彩であるほど良い。それが、情報の民主化につながるのである。

もちろん、「知る権利の拡充」と言う観点からは、記者さんがたと官僚さんがたの接触機会が減るのは大きなマイナスだ。だがしかし、国家の手足たるべき官僚が、自らの意思を持ち、口々に国民に向けて語るのは、望ましくない。

民心を失った政治家は国民の手で退場させる事が可能であるのに対し、民心を失った官僚といえども、テクノクラートは代替が効かない。歴史上、官僚機構の2軍を持つほど豊かな国があった試しはない。国民に向けて語る資格は、国民の選良に集約するべきだ。そして彼らがしくじったら、容赦なくギロチンにかけてやれば良い。官僚機構は機能を維持していればそれでよい。それは次の政治家に服す。

■印刷の時代になってもキリスト教の重要性は変わらなかった。