「科学と宗教」に関するメモ(自分の脳内補助線)
科学も宗教も、どちらも「ひとを幸せにする」目的を持っている。
でなければ続かない。他の目的を持つ場合、または別の方向の成果を出した場合、「みんな」が「世間様の害にならない程度」に抑えこむからだ。
どちらも「それに一生をささげた人」が大勢ある以上、上とか下とかはない。よーな気がする。
歴史
おおむね1500年頃を境に(数百年かけて)「宗教の権威(宗教に対する信仰)」はやや減退した。
※宗教に対する信仰:「小難しい神学論争はようわからんが、えらい坊さんの言うことに間違いはあるめぇ」程度の意。宗教者は当然、これの啓蒙・教化を志向する。下世話なことを言えば、支持者が減るとお布施に響く。
おおむね1950頃を境に「科学の権威(科学に対する信仰)」はやや減退した。
- 原爆の開発:それって倫理的にどうなのよという疑問の発生。
- 「科学の成果」が小粒になった。:伝統的な疫病の「撲滅宣言」や「アポロの月着陸」以降、「目覚しい成果」が実感しにくくなった。
※科学に対する信仰:「小難しい科学論争はようわからんが、えらい学者さんの言うことに間違いはあるめぇ」程度の意。科学者は当然、これの啓蒙・教化を志向する。下世話なことを言えば、支持者が減ると研究費に響く。
関連?:世界保健機関(WHO)による健康の定義の変遷
- 健康 - Wikipedia
- 1948(設立時):「健康とは、身体的・1精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない」
- 1999(改定後):「健康とは、身体的・精神的・2霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。」
設立時の時点ですでに「1科学以上の領域(少なくとも当時の科学以上の領域)」に踏み込んでいる。このうち「精神的に良好な状態」はまだ「科学のカバー範囲の拡大(精神医学の開拓など)」でなんとかなりそうな気もするが、1999改定ではさらに進んで2「神の領域感」が漂うナニカを加えている。
「健康の定義」を木津千里つきつめた結果そーなったんだとは思うけど、日本語で「スピリチュアル」と言うとアルカイックに微笑みつつ脱出経路を伺いたくなるし、「タマシイの健康」と脳内変換してみても、どないせいっちゅうんじゃとゆう感じだ。
「科学と宗教」と「科学的な態度」
- 「科学と宗教」というと、「いやそれは別のレイヤーの話だから分けて考えなきゃ駄目ダロ」という気分が湧いてくるが、
- 「知恵と分別」と考えると「バランスよく持ってなきゃ駄目ダロ」という気がしないでもない。
分けて考えるにもバランスよく持つにも「科学と宗教」はきちんと区別しなければならないが、そのためには「宗教って一体なんですか?」を考える必要がある。それが「科学的な態度」というものだと思う*3。
別段、ゲームが脳を破壊するとも水が語りかけるとも牛乳が有害だとも思わないけど、昨今、「疑似科学批判」が宗教がかってると批判されることが多いのは、この点で「科学的態度の不足感」が漂って見えるのかもしれない。
十把一絡げに宗教を切り捨ててあったりすると、やっぱ面白みに欠ける。「非科学的」というコトバが「破門・異端」に代わる「呪文」のように響いてしまう。信仰の価値を認めぬワケではないといいつつ、そこにどんな価値があるのか何にも書いてないと、地味に(かつ、もしかしたら目標に照らして深刻に)、説得力が薄くなる*4。
エセ仏教とエセ科学
- 念仏仏教:「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば極楽にゆける。←んなワケあるかぁっ!!往生に王道無しッ!!。ちゃんと普段の行いを心がけて云々...
- バナナダイエット:バナナ食ってりゃやせる。←んなワケあるかぁっ!!ノーペイン・ノーゲインッ!!。ちゃんと普段の栄養バランスを心がけて云々...
両者とも「云々...」以下の面倒を省いてくれるという点で一緒だ一緒だ。「複雑で難解で手間。そのわりに、ご利益がわかりにくい。」という事になると、科学だろうが宗教だろうがカウンターが発生するものなんじゃないか。疑似科学は、「従来の科学」では満たせない需要を満たしている。科学的に正しいかどうかなど、どうでも良い。あたしゃ簡単にしあわせになりたい。みたいなぁ(語尾上げ)。
歴史の教科書には、「念仏仏教は、複雑化し、権威化し、腐敗していた仏教界に不満を持つ民衆の支持を受けた」ぽい書き方をしてある。昨今の「科学界」がどうなのか自分はしらないが*5、「なかのひと」は常に「自分達が腐敗している」などとは考えない。自分達が信じるところにしたがって、自分達が得意な手段で対抗する。
近代自然科学500年の歴史の中で、根本的な存在意義に決定的な疑問符がついたことは、まだ無い。「疑似科学」には、そこをチョイと引っかく「ある意味ヒキョーな面白さ」がある。
科学も宗教も、どちらも「ひとを幸せにする」目的を持っている。「疑似科学の流行」は確かに「科学的」ではなく、カウンターを当てる必要があるが、同時に、「最近の科学はご利益が見えにくくなっているのではありませんか」という「諫言」も汲み取ると、「フンベツある科学の徒」として支持が集まるかもなぁ。などと思う。
※バナナダイエットじたいは、本来はちゃんと科学的根拠の裏づけがあり、それなりにきちんとした(面倒を伴う)ものであるらしいです。
結語
「おいらの宗教」は「仏壇の中のじいちゃん」くらいのものなので、特段の結論はないです。
そんなことより、この補助線を、如何に「ゲーム脳」その他の「”科学信仰”に基づくXX有害論」に抗する武器に応用するか(あるいはそれが戦力として期待し得るか否か)、のほうに関心があるわけですが。