表現の自由は、全ての自由の母である。他の自由を守る最後の砦。

『日本のコンテンツ産業をさらに発展させていくにもこうしたゲームで信頼を損ねてはいけない』。その台詞、たぶんあなたが考えてるより重いデスヨ?
以下、ピンクが1黄色が2青が3。重要な順で。

 少女らをレイプして妊娠・中絶させる過程を疑似体験する日本製パソコンゲームソフトに、国際人権団体などが抗議を行っている問題で、自民党は29日、同種のゲームが多量に流通している状況に歯止めをかける方策を検討するチームを発足させた。

 公明党も今月中旬に検討チームを作っており、与党内で規制強化をめぐる議論が本格化しそうだ。

 自民党で29日に発足したのは「性暴力ゲームの規制に関する勉強会」。先進国のなかでも性暴力関係のゲームや児童ポルノへの規制が緩いと指摘されていることを踏まえ、関係省庁からヒアリングを実施。今後も会合を重ね、規制強化の必要性を検討していくことになった。

 出席した野田消費者相は「子どもを守るバリアが日本ではきわめてルーズだ」と指摘。座長の山谷えり子参院議員も「日本のコンテンツ産業をさらに発展させていくにも、こうしたゲームで信頼を損ねてはいけない」と話した。

 公明党性暴力ゲームの問題を考える合同プロジェクトチームを今月中旬に発足。太田代表や国会議員らで秋葉原のゲームショップの視察を行い、有識者ヒアリングも行った。

 また、自民党の会合に出席した経済産業省幹部は、パソコンソフト業界の自主審査機関によるこれまでの対応として、〈1〉問題の性暴力ゲームの販売中止を流通関係企業へ要請し、国内で購買はほぼ不可能になった〈2〉「陵辱系」と呼ばれる性暴力もののゲームソフトは製造・販売を禁止する検討を行っている——と説明した。
(2009年5月29日23時20分 読売新聞)

1)1490:アルド・マヌッツィオ、ヴェネツィアにアルド社を起業(出版業の始祖鳥)。

伊人アルド・マヌッツィオは「読みやすいフォント!持ち歩けるサイズ!圧倒的な低価格!」とやって、今日の出版業の礎を築いたおっさんだが*1、「最古のしろがね腐女子塩野七生さんは、彼がヴェネツィアを拠点に選んだ理由の1つとして、「言論の自由が保証されていた事」を挙げておられる。

当時の言論の自由とは、キリスト教会による干渉や弾圧から自由でいられるということ。自国の経済がオリエントの異教徒との交易で成り立っていたこの海の都は、他の地方では威力があった法王による「インテルデッド(聖務禁止)」や「スコムニカ(破門)」に対してびくともしなかった。なにしろ、「まずはヴェネツィア人、次いでキリスト教徒」と高言していたのがヴェネツィアの市民で、ローマ法王もこのヴェネツィアに対しては、「他のどこでも自分は法王だが、ヴェネツィアではちがう」と嘆くしかなかったのです。
ルネサンスとは何であったのか』p81
インテルデッド(聖務禁止)p26:特定エリアの聖職者に対する職務停止命令。出産時の洗礼、結婚式の誓い、お葬式の、、なんだ『終油の秘蹟』って。戒名がもらえないみたいなもんか?そういう事になると善男善女が動揺する。
※スコムニカ(破門)p26:個人に対する村八分キリスト教徒たる者、破門された者とは関係をもってはならないとされていたので、商売あがったり。日本の村八分は、葬式と法事は例外だったので、より厳しい。なお、特に西欧の土地所有権は、ローマ帝国皇帝が法王に寄進した事になっていたので、領主がこれを食らうと領民の服従義務が消える。死んじゃう。三日三晩雪の中に立ちんぼしてでも許してほしい。当時の皇帝や国王や封建諸侯は、律令制/公地公民制下の守護地頭と思ってもそう遠くないだろう。後のルネッサンス時代、この寄進状は偽書と判明する....ヒドイw。
同じ時代にスペインやフランスやドイツで猛威を振るった異端裁判や魔女裁判も、ヴェネツィア共和国では一例も起こっていない。ローマ法王にプロテストしたとたんに禁書に指定されたルターの著作も、政教分離を説いたがために禁書あつかいになったマキアヴェッリの著作も、ヴェネツィアでならば手に入れる事ができるとは、当時のフランスからの旅人の手紙にあるとおりです。言論の自由のないところには、出版の自由もない。
同p81

これに続けて、ヴェネツィア以外で存在した、領主など有力者による個人的な「言論の自由の保証」の例を紹介したあとで、

しかし、いかに有力者でも個人による保護では恒久性は保証されない。言論の自由の保護にこのような限界があった時代、国家として教会の干渉を拒否しつづけたのがヴェネツィア共和国であったのです。ルネサンスも終わりになる16世紀後半には、宗教改革に対抗して起こった反動宗教改革の大波がイタリアをも襲う。ローマの法王庁も反動宗教改革派に牛耳られ、その中でもとくに戦闘的であったイエズス会による異端者狩りが猛威を振るうように変わる。このような時代にも幸いにして脱獄に成功できた人に、秘かに助けの手を差しのべた人々は一様に忠告する。ヴェネツィアに逃げなさい、と。

同p82
※また逃亡者かくまうのに都合がいいんだあの街の作りが。ぐちょぐちょで。みたいな事が同じく塩婆の『海の都の物語』に書いてある。行ってみて実感した。
言論の自由とは、ただ単に言論を職業にしている者に対してのみ意味をもつものではない。他のあらゆる自由の「母」でもあるのです。

同p82

以上を要するに、「言論の自由」なくして近代なし。ヴェネツィアなくしてルネサンスなし。です。自分は、表現手段の幅が広がり規制手段の幅も広がった五世紀後の現在、「表現の自由は、全ての自由の母であり、他の自由を守る最後の砦。」と考えます。

だいじなことなので二度言います。『日本のコンテンツ産業をさらに発展させていくにもこうしたゲームで信頼を損ねてはいけない』。その台詞、たぶんあなたが考えてるより重いデスヨ?

2)日本国に於ける表現規制の実態

  • [世論沸騰→業界団体が自主規制で落としどころを探る→やがて形骸化→世論追い炊き]

日本の表現規制は、このサイクルで回っている。この「よってたかって空気を読むシカケ」は他の先進諸国には無い。特徴は、批判された業界が、自らの生存圏維持を第一目標に、「純粋な表現の自由論」に走る事なく、落としどころを探る事*2。このシカケは、純粋な表現の自由論〜〜すなわち、「しち面倒でギスギスしがちな神学論争」ないし、「自由の定義を巡るリヴァイアさん」〜〜からは産まれない。個人的には、温家宝さんが目指す「和諧社会」とは、こうしたものかもとか思う。

歴史的な沸騰ポイントは、邦画で言うと性典映画戦争(50年代)、テレビで言うと低俗番組紛争(数次)、まんがなら悪書追放運動(同じく50年代)『ハレンチ学園』戦争(70年代)など。

※これらは一律に「実害よりも、情緒的な利害を巡る洗脳戦」と捉えている。攻撃側の利害は「XXなんてなくていい」。守勢側の利害は「見たい!聞きたい!遊びたい!」だ。ただし、生産側に限れば、彼らの利害は「生きさせろ!」。従って、この中では彼らの戦術が最も実効性と真剣味の高いものになる。なお、アニメやゲームはまだ歴史が浅く、手持ちの脳では例示が難しい。「ネットの闇」に至っては「主戦場」というものが無い。アルカイダVSアルカイダ状態?
 ちなみにゲーム脳戦争(2000年代)は、攻撃側が内容批判を後退させ、「科学的根拠」を純粋なプロパガンダ(洗脳兵器)に用いた点があたらしい。応戦側も同様の戦術を採った→「脳ゲー」。正しい正しく無いで言うなら、森教授があの理論で「いくつもの親子関係を救った事実」は(科学的評価とは別に)正当に評価すべきだろうし、「科学者がこう言っている」を根拠に社会を動かそうとする思考回路は(科学的評価とは別に、そして疑似科学批判も含めて)「信仰の領域」と見るべきだろう。信仰がどうだというのではなく、個々の学者さんがどうだというのでもなく、社会全体としては「科学じたいが信仰化」してないか。「科学的成果は奇蹟、科学者は司祭」みたいな。そんな世迷い言に耳を傾けないのが「良き信者」みたいな。その枠の中での異端争いというか、、、この方向を突き詰めると解脱!とか悟り!とか厭離穢土欣求浄土(オラはらいそさ行くだ)とか言い出してる未来が見えたw。今w。話を戻せオレw。手を触れるといざりが歩く!も天然痘が注射で直る!も、一緒なんぢゃないかなぁ。「縁なき衆生」としては。

この「空気駆動の自主規制サイクル」がある限り、実質的な社会の安定度は、欧米に勝るとも劣らないと考える。体感治安は劣化したとはいえ、日本の治安は先進国中最悪というには程遠い(この点でGDPとは異なる)。同時に、日本産のサクヒン群は、エロゲ規制派の参院議員が『日本のコンテンツ産業をさらに発展させていくにも』と言及する程に、世界で受け入れられている。これは、我々の社会構造が「社会規範に挑戦的なサクヒンを巡る抗争を、社会的に許容し得るレベルに収束させる能力」において、同時に「よいサクヒンが産まれるシカケを維持保全する能力」において、「両者の望み得る最善のバランスを達成する能力」において、欧米に勝っている可能性を示唆する。

蛇足ながら「エロゲなんて!あんなもの消えてしまえばいいのに!」という意見は自分の視野に無い。欧米流に言うと「キミは議論から外れてくれないか級」であると思う。ただし、こうした感情論は、決して日本人が無知蒙昧なワケでも情緒的に過ぎるからでもない。「空気駆動の自主規制サイクル」に内在する欠陥だ。

このシカケは、ルールの存在や、形成過程、そして「できたルールの妥当性」が、「部外者」や「無教養者」などには見えにくい。無教養とは、一義的にはゲームやアニメやまんがや、この場合はエロゲの教養(w)が無い事だが、二義的には、「社会正義に酔っている」か、「キミは議論から外れてくれないか級」の思考回路*3。を含む、、、そうした人々にも見えやすく、納得度の高いルールが要るのだ要るのだ!、という場合、このシカケは弱い。「餅は餅屋」は「民主"主義"」と相性わるいのだ。

従って、以下の指摘は事実と見て間違いない。

  • 先進国のなかでも性暴力関係のゲームや児童ポルノへの規制が緩い
  • 子どもを守るバリアが日本ではきわめてルーズ

しかし、先述の通り、国内には「莫迦には見えない透明バリア」が存在する。欧米流の「莫迦でも見える学級目標」を日本社会に持ち込むのはマイナスの方が大きいと考える。

例えば米国では、こうした規制の前に国会議事堂で徹底的にバトる。時宜に応じた法の改廃も盛んだ。これは表現規制だけでなく、全ての法律に共通する。憲法の修正も、日本に比べれば日常茶飯と言って良い*4。背景には「しち面倒でギスギスしがちな神学論争」のルール、つまり「ディベートの作法」というものが高度に発達しており、かつ広範囲に普及しており、「売り言葉に買い言葉」に発展する事がまず無い、という土壌がある。日本人同士で「キミは議論から外れてくれないか」は、ちょっと言えないだろう*5

もしも日本にもこのような「文化」があり、それを背景に「時宜に応じたルールの改廃が盛ん」であれば、明文化された厳格なルールをこさえたほうが、「空気駆動の自主規制サイクル」より「社会全体の納得度」はあがるだろう。単に「現在の納得度」では不十分だ。時宜に応じたルールの改廃が盛んでなければ「将来に渡る納得度の高さ」を維持できない。そして、日本では一度できた規制法はなかなか改正されない。例えば風俗営業法の規制対象は以下の通り。

  • 風俗営業
    • 接待飲食等営業
      • 1号営業 - キャバレー
      • 2号営業 - 料理店・社交飲食店(クラブ・キャバクラ等)
      • 3号営業 - ダンス飲食店
      • 4号営業 - ダンスホール
      • 5号営業 - 低照度飲食店(バー)
      • 6号営業 - 区画席飲食店(カップル喫茶)
    • その他(遊技場営業)
      • 7号営業 - マージャン店・パチンコ店等
      • 8号営業 - ゲームセンター等

同法は1948年(戦後すぐ)に「風俗営業取締法」として制定されたものだが、その後、時流に応じて増築温泉化している。1号〜8号の各種商売は、制定当時の社会的要請から順次追加されていったものだが、例えば「4号営業 -ダンスホール等」は、「ダンススクール」を含み、これを開業する者は、施設内に規定の大きさのカウンターや流し台を備える必要があった。要するに「戦後すぐのダンス教室」というのは「出会い系」だったようなのだが、この規制は、1996年公開の『Shall we ダンス?』が海外で好評を得た後に、議員立法で国会で改正され、大幅に緩和されている。その間、形骸化し過剰となった規制が何年続いたのか?、、、現在、そんな事に関心を持つ者はごく僅かだ。

「時宜に応じたルールの改廃が盛んでない」という日本固有の事情を考えると、欧米と同じレベルのバリア持ち込む事は、欧米よりもキツい法令滋彰リスクを覚悟すべきと考える。
















 






















 









 






 




 






 







 





法律を細かく厳格にすればするほど、「わるもの」が増える。みたいな。

緩和されたとはいえ、「ダンススクール」はいまなお「風俗営業許可証」をとる必要がある。一部の警察関係者や司法書士の方は必要と言うかもしれない。そのコストは、最終的には生徒さんの月謝に乗る。おそらくずっとそのままだろう。もはやそんな事に関心を持つ者はごく僅かだからだ。

ところでアメコミが「あんなカンジ」である理由の一つには、日本とほぼ同時期(おおむね50年代まで)に発生した「コミック規制運動」が圧倒的な勝利を収め、ガチガチの規制で、「毛ほどでも社会通念に反し得る内容」は描けなくなったから、という説を見た事がある。それだけが理由、という事もないだろうが、もし理由の一端であるならば、この「空気駆動の自主規制サイクル」が産む「曖昧な線引き」ないしは「社会規範と表現の自由の、恒常的な相克関係」は、日本のサクヒンビジネスにとって重要な要素だ。

エロゲ規制など不要という積もりはない。「空気駆動の自主規制サイクル」が万全でそれ以上のものは無いという積もりもない。しかし「国会議員として」欧米なみの明白なバリアを言うのなら、「時宜に応じた機動的な改廃」も担保して頂きたい。

だいじなことなのでまた言います。『日本のコンテンツ産業をさらに発展させていくにもこうしたゲームで信頼を損ねてはいけない』。その台詞、たぶんあなたが考えてるより重いデスヨ?

※ただし、今回の「空気駆動の自主規制サイクル」は、陵辱系エロゲというどぎつさが対象であるにしても、ちょっとクロック周波数と発熱を上げ過ぎでねぇかという気はする。もともと社会全体の納得度は低いという欠点と合わせると、社会全体の納得度を上げる為に、大新聞が報道するや否や「過剰なまでに平伏する」のがデフォになる可能性がある。最悪のケースは、「戦前の英語教育禁止パターン」に陥る事だろう。ああなるくらいなら、しち面倒でギスギスしがちな神学論争を木津千里やるほうがマシだ。

3)関係省庁からヒアリングを実施 / パソコンソフト業界の自主審査機関によるこれまでの対応として〜

自民党と他の野党との違いは、政策調査会という常設組織を持ち、この組織ないしその傘下の分科会に、官僚がは日常的、恒常的、常態的に「ご説明」に伺う事。この結果、自民党は民間の政策シンクタンクを頼る必要がなく、野党に対しては、具体的な政策情報に於いて、圧倒的優位に立てる。また官僚から見れば「わが省の政策に理解ある議員」を養育するゆりかごともなっている。ひらたく言うと、族議員だ。

日本では「首相や大臣や国会の統制(議院内閣制)」よりも、図の左1/3を占める「事実上の統治機構」のほうが強い(図中では「じじとう」と略してある。政治学者さんなどの世界では「官僚内閣制」と言うようだ。)。

委細は「地デジ問題」に興味があると、厚労省の医薬品通販規制も面白い。 - agehaメモの後半部を参考されたい。が、一応要すると、日本の政策は「業界団体→主務官庁」という「生業別の民意集約機構」でほぼ決まる。本来は「選挙と議院」という「地域別の民意集約機構」で決めるのがタテマエだが、前者のほうが、高速で、細密で、「餅は餅屋」だ。これは官僚主導で「追いつき追いこせ」をやるには向いている。「発展途上国型の開発独裁」から「優秀な独裁者」を抜き、代わりに「一致団結・官民一体」を乗せた、日本独自のソリューションであると思う。

この構造の中で「業界団体→主務官庁ユニット」からモノを見ると、国会議員は縁起物(首相、大臣、各議員)という事になる。だがしかし、縁起物はおろそかにすると福がこない。前述した「自民党とこの構造の密接な関係(族議員コスト)」には、「民主制のタテマエを守る」機能がある。各「業界団体→主務官庁ユニット」は、いつもの縁起物がいつもの場所にある事で、安心して仕事に打ち込める。さぁ、追いつき追いこせ、ススメイチヲクヒノタマだ!

こうなると「縁起物」は「いつもの場所にある事」が最大のお役目となる。当選回数を重ねて「大臣のイス」を貰う事がご褒美でもある。具体的な政策は役人どもにまかせておけば良い。「その場限りの口当たりの良い事を言って当選回数を重ねても、後々のペナルティが薄い」。

  • まんが、アニメ、ゲームは。長らくこの構造に食い込んでいなかった。
  • むしろ「その場限りの口当たりの良い規制」に、幾度もの危機に晒されて来た。
  • エロはさらにそうだろう。

特にこれらの業界を称揚する理由はない。ただ、下に見る理由もない。

個々に立派な政治家さんが在る事がわからないではないのだけれど、構造的にはそんなカンジ。誰が悪いというわけでも無い。政治構造というのは地生えの植物みたいなもんだし、ご先祖サマが残した高度成長という、とてつもない成果には文句のあろうはずもない。

このシカケが持つ最大の問題点は、「追いついちゃったらどうしよう?」だ。「一致団結・官民一体」で動く「業界団体→主務官庁」ユニットは「お手本のない世界」では妥当な目標を設定できずに迷走する*6。「追いつき追いこせ」という正義がなければ、複数ある「業界団体→主務官庁」ユニット間の利害対立は「落としどころ」が見つからない。「縁起物」に、高度成長期とは異なる種類の実効性を求めるシカケが必要だ。

なお、図の範囲のシカケは、その全体が、1993の55年体制崩壊(細川内閣)以降、一貫して「構造改革」の途上にある。ただしあるべき姿は見えてない。落ち着くべきところに落ち着いてもない。そして「行き過ぎた改革の見直し論」を追い風に、「55年式意思決定構造」は、大いに勢力を盛り返しつつある。

なお、もともとこの図は、「不当なダウンロードの違法化問題」や「ダビング10 VS私的録音録画補償金紛争」、そして「地デジ問題」などに関わる意思決定構造の混乱を整理するべく、主に産業政策と文化行政を念頭に置いて描いたもので、しかもまだ途中。不快に思う方があるかもしれないが、平にご海容賜りたいm(_ _)m。

なので「表現規制」に使うには、やや手直しが必要だろう。頭書の記事を見ると、なぜか経産省が前に出ているが、AV、ゲーセン、そしてエロゲなどの場合、「カスミガセキ」の位置は「サクラダモン」にすべきと思われる。でもまぁ、「具体的な被害者が存在しない創作物」でサクラダ・ファミリアが前に出るのはイカンわな。志操統制(誤字だけど、合うw)っぽいし、、、と書いてふと気づいた。

  • 〈1〉問題の性暴力ゲームの販売中止を流通関係企業へ要請し、国内で購買はほぼ不可能になった ← これはまぁ良い。
  • 〈2〉「陵辱系」と呼ばれる性暴力もののゲームソフトは製造・販売を禁止する検討を行っている ← 「系」だって?

大事なことなので二度いいます。「具体的な被害者が存在しない創作物」で『系』だって?個別具体的なサクヒンならともかく『系』だって?
いつから経産省は「国民の志操」を預かる役所になったんだい?

.

4)エロは石垣、エロは城。

とりあえず『デカメロン』は、エロい。教科書的には寓話を集めた短編集で、教会権威を揺るがせたもの、という事になっているが、自分は「エロ本だろこれわ」と思った。『週刊実話』とか『週刊大衆』とか、あのへんから「陵辱調教飼育ものを厳選した集大成!〜〜ああ、神父様!私の中の悪魔が悪魔が」とかぢゃないのかあれわ。読んだの随分昔だから覚えてねーけど。心ある人は眉を顰めたと思うよ。2〜3度使った(告白したから天国の席ゲットだぜ?)。

ヴェネツィアで隆盛を極め、ルネサンスを加速した出版業だが、いくらアルドさんが「読みやすいフォント!持ち歩けるサイズ!圧倒的な低価格!」と叫んだところで、当時の「一般大衆」には読書習慣というものが無い。当時の市場は神学生や知識人が中心?そりゃアルド社自身はそうかも知らんが、それで満足するタマかね神を恐れぬ不埒な香具師*7。出版業が隆盛(ないしは猖獗)を極めるには、なによりもまず「読書という生活習慣病」を広める必要がある。本を売ろうというなら先ず客を本漬けにしなければ、、、やったんぢゃねぇの?エロ本のパンデミック作戦を。

数が質を生む。傑作は、ゴミのようなサクヒンを山のように積み上げた、そのてっぺんに現れる。サクヒンの質的向上は、競争によってのみ果たされる。悪貨は良貨を駆逐しない。客の目が肥えるだけだ*8

蓮の花は泥に咲く。ルターの著作も、マキアヴェッリの著作も、その泥に咲いた華だと思う。ありえねぇぢゃねぇか。ぽんと、傑作だけがでた所で、誰がそれを理解できる?堆肥を臭い汚いと遠ざける者に有機農法は理解できない。「良い作物」が欲しいなら、土の事情を知る必要がある。少しでも深く。少しでも深く。それが教養というものだ。

だいじなことなのでまたいいます。『日本のコンテンツ産業をさらに発展させていくにもこうしたゲームで信頼を損ねてはいけない』。

『その言葉、アナタ思うより重いデスヨ!?』〜〜メアリー・フォード、絶対可憐チルドレンVol.5。

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ところで。エロゲ業界は任天堂を見習ってみてはどうか。家族の誰からも嫌われないエロゲ。とか。親子で楽しめ触手系。とか。脳科学者監修・アタマが良くなる陵辱系。とか。いまだにPowerPCなマカーなんで、縁なき衆生の戯れ言ですが、とりあえず『絶対可憐チルドレン』は最後まで読みたひ。なんであんなスレスレなとこ狙うかなもー。

*1:その意味で「情報革命」や「デジタル革命」を考える時には断然外せない。

*2:サクヒンビジネス・レーベンスラウム、なんちてw

*3:個人的には、なにか一分野でも確固たる教養を持つ者は「XXなんて!あんなもの消えてしまえばいいのに!」とは、恥ずかしくて言えないと信じているので。教養の対象は趣味や興味の範囲に限らず、「文系/理系」のようなガクモン分野でも、製造やサービスのような生業分野でも、誰かと問われれば主婦だと応えるがあたしの主義だ!でも自由自在であるかと思う。

*4:というか世界的には日本が金科玉条主義なのだが

*5:これは最終通告で、その前の警告段階として「その論法は建設的でない」という侮辱があったりもする。英仏あたりではもうちょっと入り組んだ修辞学を使うらしい。高等な皮肉とか「フランスのエスプリ」とか。

*6:この状況下で「日本のコンテンツ産業」とやらに注目が集まっている現状は、「日本のサクヒンビジネス」にとってかつてない危機、という見方も可能。

*7:サクヒンビジネス=情緒産業の従事者は、すべからく香具師、詐話師、興行師だと思ってます。莫迦には見えない服を売る。

*8:cf.サクヒンビジネスの原則(初号案) -agehaメモ