公明党、丸谷佳織議員の引退関連。

 21日の衆院解散に伴い、道内選出議員では公明党丸谷佳織(44)比例代表道ブロック=、民主党金田誠一(61)=道8区=の両氏が引退する。
 丸谷氏は1996年に旧新進党から初当選。1期目に拓銀破綻(はたん)、有珠山噴火など北海道を揺るがす大きな出来事が続いた。「こうした危機に政治は迅速に対応しないといけないと痛感した」と振り返る。
 「国民を向いて仕事をする」ことを信条とし、法案づくりなどで女性や子どもの声を代弁してきた。それだけに、今国会で党の作業チーム座長として取り組んだ児童買春・児童ポルノ禁止法改正案が、解散で廃案になることに「政局に左右され、国民に不利益が出ることに憤りを感じる」と無念さをにじませた
 引退後の活動は未定だが、「これまでの経験を生かし、社会に貢献したい」と意欲を燃やしている。
 金田氏は2006年1月に脳梗塞(こうそく)を患い、現在は車いすで登院しながらリハビリを続けている。中選挙区制最後の衆院選となった93年に旧社会党から初当選し、医療、福祉、環境分野などで精力的に活動。97年の臓器移植法案をめぐる国会論議では、脳死を人の死としない「金田案」を提出。衆院では否決されたものの、その後の参院での法案修正に大きな影響を与えた。
 護憲派の論客としても気骨をみせ、01年のテロ対策特措法に基づく自衛隊派遣の国会承認では、民主党の方針に従わず反対票を投じ、処分された。

無念の引退?公明党の作業チーム座長が?なんで?

通常の場合、国会議員は44歳で「引退」などしません。
つまり「法案とともに廃棄処分になった」という話です

国民に不利益が出る」事が強く懸念されていた法案の改悪は、幸いな事に「時間切れで廃案」になり事なきを得ていますが、丸谷佳織という人間が成立に力を注いだと主張している政府の法案は、「他人の思想を我基準で恣意的に規制する」ことを可能にする、非常に悪質なものだったのです。
丸谷佳織」という人間が、そういう法案を成立させる為に「全力で働いた」と語っている事はぜひ覚えておいてください。

なにか張り切りすぎて、公明党としてもちょっと、という感じになってしまったんだろうか?

唐沢 児童ポルノ法にしろそうだけど、“この法案が通過したら、それを逆手にとった悪質な犯罪がが起こるのでは”ってことまで論議されることが、日本って本当に少ない国だからね。とにかく“まず、通さなきゃいけない”って目を吊り上げて必死になっている人に、みんなひきずられてしまう。問題点を指摘すると、“じゃああなたは子供が性の犠牲になってもいいというのか!”と二者択一を迫られて、ワルモノにされてしまうんだな。

このへんで度が過ぎてしまう人は常にあるものだが、「政党の作業チーム座長」ともなれば、通常、このへん↓きちんと計算高い人がなるように思うが、、、

村崎 いやあ伝統的に自民党って、選挙前になるとやたらとポルノ関係を取り締まるものじゃん。あれやると、露骨に婦人票が伸びるらしいんだよ。だから選挙の事前運動の一種だと思って間違いない。
唐沢 戦後、婦人層を必要以上に持ち上げてきた名残なのかね。昔、カストリ雑誌の「あまとりあ」が婦人議員から糾弾を受けて廃刊にされたときの話なんだけど、押鐘篤っていう、医学者なんだけどものすごい女性差別主義者で、常に「女はバカだ」って言い続けてきた人がその騒ぎを横で見て、「ほら見ろ、やっぱり女はバカだ」って言ったっていう記録がある(笑)。ま、いまさら躍起になって婦人票獲得に乗り出したところで、今回自民党惨敗なのは目に見えてると思うけど。

いずれにせよ建設的な議論の為には、「君は議論から外れてくれないか」級は、文字通り外れてもらったほうがよい。それは以下も同様だ。

唐沢 その通りなんだが、もはや、その問題提起もカビが生えた物言いになっちまったな。問題はね、人権々々と空虚な権利主張が長年繰り返される段階で、本来の基本的人権の主張ですら、単なるワガママの言い立てというイメージが定着しているということなんだよ。ロリエロの表現の自由って、確かに表現の自由というレベルでは守られなくてはいけないことだけど、その表現を不快に思う自由を行使する人々との兼ね合いを常に考えないといけないことだろう? ところが、ロリ系の掲示板などを見てみるに、彼らはほとんど、自分たちの表現の自由しか言い立ててないのね。それぞれのいわゆる自由には、その価値観同士対立するものがあって、全ての自由が無制限に許されるものでない、ということくらい、常識でわかりそうなものなんだが、そこが全く論議の中に入っていない。

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個人的には、「児童買春・児童ポルノ禁止法改正案」が「時間切れで廃案」になったことに、失望している。「児童を保護する仕掛けの議論」は、続けるべきものだと思っている。われわれの社会にとって「あるべき児童保護の姿はどのようなものかという議論」は、選挙や政局の材料にすべきものとも、会期切れ廃案が相応しいものとも思ってない。衆議院がそれを避けられないなら、より安定した「良識の府」に「事実上の優先審議権を渡す」なり、国会の会期が足りないのなら、憲法改正で伸ばしたって良いくらいだと思ってる。

また同時に、「社会的な許容範囲」VS「表現の自由」のバトルは、不断に、永遠に、継続すべきものだとさえ思ってる。なぜなら全ての表現は、常に受け手の常識や良識を揺さぶり、「自分で考えて、自分で決めろ」と迫るものだからだ。その結果「社会的な許容範囲」は、二つのパラメータで不断に変化してゆくものだからだ。

  • 文化圏プレイスシフト:地域や文化圏による違い。
  • 時流タイムシフト:時代の変化による変化。

「文化圏プレイスシフト」については、画像一枚に尽きる。児童ポルノの単純所持を禁じてないのは日本だけ!という論法はやめてくれ。

まず問うべきは「なぜ、彼らは、そこまで、するか?」だ。われわれの社会は、スナッフ・ビデオの実在が信じられるほど荒んでないし、毎朝の牛乳パックに行方不明の子供の顔写真がのるほど荒んでない。さらに性行為そのものを「原罪」とみなす倫理観も、彼らほどには強くない。

「時流タイムシフト」については、「空気駆動の自主規制サイクル」という日本固有の「社会的な許容範囲を決めるシカケ」を、よくよく吟味すべきだと思ってる。

  • 世論沸騰→主務官庁と業界団体で自主規制→やがて形骸化→(場合により)世論再沸騰

個人的には、「空気駆動の自主規制サイクル」は、あいまいで不透明で行き過ぎも多い一方、日本のソフトパワーの母だとも思ってる。創り手たちが、時流タイムシフトに即応できるからだ。法的根拠のあいまいな自主規制を破るために必要なコストは、「今なら大丈夫、このくらいなら大丈夫、この内容なら手塚治虫さんにだって胸張れるゼ!」という、創り手の読みと気合と覚悟、だけだからだ。

その積み重ねが、その蓄積が、アメコミやカートゥーンには飽き飽きしたが、ベデには乗り切れない世代の子供たちに、「僕の悩みは僕だけのものぢゃないんだ!僕の抱えたモヤモヤは僕一人だけの事ぢゃないんだ!この気持ちはイケナイものではないんだ!僕はここにいてもいいんだ!」を、与えてきたのだ、、、と、思ってる。

その最大の成果はコレだろう。

おヒマな方は以下も合わせてお読みいただきたひ。

もちろん、規制論抜き、すなわち、野放しではこうは行かない。麦は踏まれて強くなるからだ。しかし踏みすぎてもイケナイ。たとえば、欧米流の「論理駆動のディベートサイクル」、すなわち国会議事堂での徹底した議論で生み出す「厳格で緻密な禁止立法」では、こうはいかない。彼らは、「社会的な許容範囲」VS「表現の自由」のバトルを、不断に、永遠に、継続する仕掛けを、見事なまでに組み上げてはいるが、「厳格で緻密な事前の禁止立法」は、創り手の読みと気合と覚悟を、許さない。有象無象の区別無く、種もみごと踏み潰してしまう。

(話がそれるが、ここに「現代アート」なるものの成立余地がある。これは日本では大した存在感を持っていないが、それは日本人が現代アートに理解がない事を意味しない。我が国における「常識や良識を揺さぶり、自分でものを考えさせる創作物に対する需要」は、ヨソで充分間に合ってますと言うだけの事だ。ソレは海外アートシーンに比べれば深みは足りないかも知れない。その代わり、裾野はとてつもなく広い。どちらも誰に保護されたわけでもなく、誰の敷いたレールを頼るでなく、ただ己のキモチと可能性を信じた人々の努力に依っている。ソレを心から必要とした人々の支えに依っている*1

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「拉致誘拐強制により撮られた写真」はもちろん、「言われるままに意味もわからずポーズをとった妙な写真」、あるいは「気づかぬうちに盗撮された写真」などがネットでやり取りされているなら、それは大きな問題だ。被害者の心に大きな傷を残し、えぐり続けることになる。その策源地が日本だというなら、それも大きな問題だ。一国だけ足並みを揃えず、大きな問題に対処しようとしている諸外国の足を引っ張るような真似はすべきでない、という問題もあるだろう。海外からのアクセスを蹴るというのも、検討はあってしかるべきだろう。

どこに落としどころを見つけるかは、選挙や政局の材料にすべきものとも、会期切れ廃案が相応しいものとも思ってない。結論を急ぐ事はない。わかり急ぐのは悪いクセだ。不足規制はいつでも足せるが、過剰規制は誤爆の母だ。そしてこのネタは深い。表現の自由は全ての自由の母であり、他の自由を守る最後の砦だからだ。この議論は、とことん尽くすべきものだ。
より安定した「良識の府」に「事実上の優先審議権を渡す」動きも、継続審議を求める動きも出なかったことは、残念に思う。
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ただし、十把一絡げに「具体的被害者の存在しない創作物」まで規制範囲を広げる「自民・公明案」が葬られたことは、喜ばしく思う。

  • なぜ日本には、よくできたまんがや、アニメや、ゲームがあるのか?
  • その足元に大量のごみの山があるからだ。
  • 数が質を生む。悪貨は良貨を駆逐しない。客の目が肥えるだけだ。
  • ゴミのよーなサクヒンが山のよーに積みあがれば、てっぺんは自ずと高くなる。

 

  • 蓮の華は泥に咲く。泥かきだせばもう咲かない。

そらもちろん座敷や床の間まで泥が飛び散るようでは具合が悪いが、華だけ見て泥をかき出そうとするのは論外だ。自分はそうした者を、無教養と呼ぶ事をためらわない、、、そういうタイプは、議論から外れてくれないか?

*1:村上隆さんは、その共通項を嗅ぎ取ったビジネスマンだと思っている。