フラガール

***引用符略ココカラ***
1950年代後半。福島県常磐炭鉱は斜陽化の中で『日本人が行ってみたい外国ナンバー1』だった「ハワイ」に着目。炭砿で厄介物扱いされていた地下から湧き出る豊富な温泉を室内暖房に活用し、「夢の島ハワイ」をイメージしたリゾート施設を計画。

1964年。運営子会社として常磐湯本温泉観光株式会社を設立。

1966年。「常磐ハワイアンセンター」オープン。

プロジェクトは新たな収益源化や、炭鉱の縮小/閉山に伴う離職者対策として進められたものだが、社内でも先行きを疑問視する声は強く、社員たちにも転身に根強い反対があり、「10年続けば御の字」という悲観的な見方すらあった。最終的には当時の常磐湯本温泉観光社長(常磐炭鉱副社長兼務、後に社長)の中村豊が押し切る形で事業を進めた

常磐音楽舞踊学院を設立し、自前でフラダンス、ポリネシアンダンスの本格的なダンサーを養成するなど、南国ハワイに拘ったシチュエーションが評判を呼び、さらに高度経済成長を遂げる日本に於いて、海外旅行が自由化されたものの、庶民には海外旅行など高嶺の花という時代であり、手軽に雰囲気を楽しめることなどから人気リゾート施設(当時『リゾート』という言葉はなかったが)となり、成功を収めることになった。

70年代:
大型温水プールを中心にした高級レジャー施設として、東京方面から多くの観光客を集めた。特にホテルは1泊3万円以上と、当時では破格の料金が設定された。

80年代
レジャーの多様化や施設の陳腐化などで集客が鈍化。海外航空運賃の激安競争で、本当のハワイに行った方が安いとまで言われたが、歌手の営業先等で食いつなぐ。アイドル歌手には、「引退寸前の歌手が行く公演先」として忌避されがちであったが、多くの「追っかけ」が訪れたという。

90年代
総事業費50億円をかけた施設改修、および「スパリゾートハワイアンズ」への名称変更でイメージチェンジを図る。後のブームに先駆け「温泉」に着目。泉源は、常磐炭鉱跡地の鉱底を再開発したもの。

東京方面からの無料バスによる送迎サービスを行うなどの集客努力などが功を奏し、現在では年間140万人を越える集客まで回復、多くのリピーターも獲得し、他のリゾート施設の苦戦を尻目に健闘を続けている。2005年度には「常磐ハワイアンセンター」時代の1970年(昭和45)以来の年間利用者数150万人の大台を達成した。
***引用符略ココマデ***

  1. 日本型:会員権—長期的関係—文脈的技能
  2. 英米型:所有権—労働市場—専門的技能
  • 炭鉱の縮小/閉山に伴う離職者対策というのは、ビクターに於けるVHSの開発動機と一致する。
  • 当初の炭砿で厄介物扱いされていた地下から湧き出る豊富な温泉や、80年代終盤の縮退期にに、再び常磐炭鉱跡地の鉱底に目をつけた事など、「手持ちリソースの応用」から離れていない。

たぶん『日本型:会員権—長期的関係—文脈的技能』は、全員が「豊かになれる目標」に向かって足並みを揃えた時に真価を発揮する。中国人の言う、一個日本人是虫。一群日本人是龍。って奴だ。