仮説:匠の技に潜むコトワリを明らかにし、両者を合する姿勢を「道」と呼ぶ。
柔道にせよ、剣道にせよ、江戸時代には柔術といい、剣術と言った。テクニックとかスキルといったところだ。そこに「道」。道徳、人の道、なんらかの教え、イデオロギー、イズムを加味して柔道とか剣道とか、言い出したのが嘉納治五郎さん、、、だと思ってたのだけど、ウィキペディアみたらなんかぜんぜん違う印象 〜少なくともだいじなプロセスが一個抜けてる印象〜 をウケタ。
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マヌーサw。じゃ「道」って「理論化」の事?
メダパニw。下段を「道」と呼びますか明治人w。いやマテよ?下段を「窮理」に代えて、「道」を後ろにずらしちゃどうか。
「術」 | 理論化されてない暗黙知の鎌足。匠の技。「体で覚えろ」「技は盗め」。「出来る・出来ないの問題」。 |
「理」 | ソコから原理を抽出し、理論化し、言語化し、普遍化する事。「なぜ出来る・なぜ出来ないの問題」。 |
「道」 | 両者を繋ぐ架け橋の道。 |
- 匠がパパ、窮理がママ、生まれた子供が講道館(道の為きたれ!)
…よし。気に入った!(いいのかそれでw)。コレと似ている。
- 職人の親方(技術者/錬金術師)と研究者(科学者/Seeker of the truth)、結婚したのが工科大学。
現象をアナライズして一般化したのがアナロジー。ソサエティをアナライズして一般化したのがソシオロジー。テクニックをアナライズして一般化したのがテクノロジー。これらは暗黙知の段階は脱しているが経験知の言語化ではあり、なにかと役にたつ事が多い。ただし経験則に負う部分が多く例外の発生条件が未解明で再現性則ち応用範囲の拡大に難があった。
一方で Seeker of the truth は、元素がどうの、地面が動いてるの、何言ってるのかよくわからないしナニカと役に立たない事が多いんけど、面白くない事もないし樽の中に住んでて大変だからオマエちょっと食べ物もってってあげなさい。
すっげー乱暴に言うと、長い間「科学」と「技術」は、そんなカンジで全くベツモノ扱いだったらしい。
それが「結婚」したのが19世紀後半。「生まれた子供」が目覚ましい成果を挙げ初めた頃に日本の開国が来る。だもんで日本人は、「科学」と「技術」ではなく、「科学技術」と一体視して捉えた。のだそーな。
もしソレが「文明開化の基底思想」のレベルにまで広まったとすれば。「『技術』を『科学』で解き明かす!」ちゅ姿勢は、東京帝国大学が一番色濃く受け継いでる筈なわけで、嘉納治五郎さん:1860(万延元) -1938(昭13)、の人生前半を拾って見ると、こうなる。
- 1877(明10)17歳:東京大学に入学
- 虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い師範を探して柔術入門。
- 1881(明14)21歳:東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。 ← たぶん「文系」。
- 柔術二流派の技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。
- 1882(明15)22歳:講道館を設立。
- 1883(明16)23歳:剣術や棒術、薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図し、講道館の有段者に各種の古武道を学ばせた。
「文系」ではある。だが、スポーツサイエンスの始祖鳥ぢゃねぇのかこれわ。発展の道は「匠の技」と「窮理のコトバ」の間にある。その道を講じて両者の掛け橋となるのだなるのだ。みたいな、、、単に「文武両道」ちゅ気もするがw。
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それにしてもなぜ「道」なのか。「術とは違うのだよ術とは!」と言いたかったのなら「学」でも良いではないか。やっぱなんか道徳、人の道、なんらかの教え、イデオロギー、イズムがあんのか。
「術」と「理」は手に手を取って、「できないからやる!」「できるからやる!」を目指すものだ。ただし、時には「できるけどやるべきでない」「できないけどやるべきでないからやらない」という選択が必要な時が必ずある。という事で「道」にその意味合い 〜「掛け橋」以上の倫理的な風合い〜 を持たすとこうなる。
- | 講道館 | 工科大学 |
「術」 | 「出来る・出来ないの問題」 | テクノロジー |
「理」 | 「なぜ出来る・なぜ出来ないの問題」 | サイエンス |
「道」 | 「やるべきか、やらざるべきかの問題」 | Out of 眼中(or 既存宗教に丸投げ) |
「工科大学」には、この「道」に相当する理念が弱い。
ときどき、「技術や科学の発展に道徳を被せるべきでない」的な文言を見ないではないし、聞かないではないのだけど、文系の自分としては、その台詞には納得の行く時と、行かない時がある。例えばnyの開発者の方は、ご自分でもウップもダウソもしてらした筈なんで、違法合法と関係なく、その部分には好感を持って無い。アレ作った動機の部分にはそれ以上の好感持ってるけど、十把一絡げに「科学技術者無答責原則」というのは、有り体に言うと聞きかじりの「自由」を振り回す中二みたいで、好きくない*1。
「やるべきか、やらざるべきか」の局面に立った時に、「やるべき理由」から「やるべきでない理由」をさっ引いてオツリがくるならやるベキだと思うんだけど、その差し引き勘定は個別の問題ごとに違うし、計算結果は時局に応じて常に揺らぐ。ただし、術も理も無い者が道など説いても耳を貸す者はない。勘定がアバウトすぎるからだ。
術と理の間で「ゆくべき道」は、術にも理にも長けた者が勘定するのが、最も誤差が少ない。その議論を不断に続ける「ビルトイン・スタビライザー」に「道」とつけときゃ、多少は倫理臭い事もアタマに残って立派な子が育つ。とかなんとか思ったのジャマイカ治五郎せんせー22歳。