ひとのものをとったらどろぼう!
なので、グリーンピースジャパン弁護士の「証拠品であるうえ、不当な利益を得る意思もなく、違法性を免れることができると考えている」というのは一体オマエはナニを言っているのだ。とゆうカンジだ。
どこぞのソシキが勝手なリクツで無断でオレの荷物を検査されても、困る。いやいや問題なかったら戻すつもりだったのですよって、通るかそんな屁理屈。それがまかり通るんならオレは銃を持ちますよ。ヤられる前にヤりますよ。心安らかに暮らす為に武器持ちますよ。むしろ公安の出番だろソシキ的確信犯なんだから。法は守らなきゃダメなんて言うつもりはないが(あ〜いやダメだけど)、それ以前のなんかこう、ほっとくとナニするかわからんていうか道で会ったら子供隠しますよおれは。エクストリームやべぇって。ありえねぇよこんなのがそのへん歩き回ってるなんて。あー逮捕されて良かった!。
したがって、GPJの主張には一切耳を傾けない。見ない聞かない信じない。ナニを言おうが信頼しない。なんでじっくりナカマを増やさんのかね。ホエールウォッチングとかスゲェ武器もってんのにモッタイナイ。
そしてそれとは無関係に、「調査捕鯨」うさんくせぇ。
たしかに捕鯨は日本の一部地方の伝統文化ではある。しかし、現在の捕鯨はそれと直結したものというよりは、明治期に勃興した欧州流の「産業」、また戦後の食糧難を凌ぐための方策の、複雑な混合物だ。
日本の鯨肉食は戦後の一時期に急増した: 日々雑録 または 魔法の竪琴に、次のような内容が簡潔にまとめられている。
- 捕鯨・鯨食の伝統は、一部の沿岸地域固有のもの。
- 鯨肉が一般に食べられるようになったのは、明治期に爆装モリを使うノルウェー式捕鯨の輸入後。
- 神様として捕鯨をタブー視する地方もあり、青森では捕鯨会社の焼き打ち事件もあったこと。
- 鯨肉消費があがったのは戦後の一時期だけであること。
感傷的な「日本固有の文化論」は必ずしも的を射ていない。ちと誇張し過ぎのきらいがある。
戦後食糧難期の捕鯨については此方がオモロかった。
スキですオレ、こういうの燃える。なお、以下の記述は銘記しておくべきかと思う。
「欧米式捕鯨と異なり日本の捕鯨はなにも捨てない。乱獲したのはあいつらだ」と言うのは、戦後の話。戦前は恐らくワレワレも同罪だし、戦後のこの時点でも国際捕鯨条約に未加盟。したがって上記の俗説は妥当性を欠くばかりか、有り体に言えばコドモっぽいように思う。
また、以下の記述も興味深い。
もし現時点で鯨に郷愁を感じる人があるとすれば、それはこの時期に味を覚えた方だろう。伝統文化と言い切るのは語弊があるが、歴史である事は間違いない。
つまり日本にとっての捕鯨/鯨食は、伝統文化でもあり、近代史でもあり、戦後史でもあり、反省すべき点もあるものの、さらっと捨て去るには惜しいという。たぶん世界中のどこの国とも分かち合えない複雑な情念の象徴になってんでないかと思った。反捕鯨論は感情的であるかもしれないが、捕鯨継続論もまた、同様であるように思う。「鯨を喰いに行く」っていったら、やはり味覚より「グリピうぜぇ」的な思考が味覚に勝ってしまうし。
自分の味覚では、鯨は不味い。なんか能書きのつく部分は別として、赤身は嫌い。鉄の味濃過ぎ。ヘモグロビンてゆうかすいません血に弱いんですオレ。あ、ハリハリ鍋というのを食べた事ないので、あれは食べてみたいなぁ。という程度。「さえずり」や「尾の身」や「畝須」は美味いと思うが、一番大量にとれる赤身は、そんなに需要あるのかなあれは。
有り体に言って「調査捕鯨」で取れたものを市場に流すのはやはり欺瞞的だと思うし、「伝統的な慰労品」として鯨肉を配る「科学的調査」にどれほどの信頼性あるのか?とも思う。乗組員の御持ち帰り含めて伝統文化なのですよと言うならそれでも良いが、それはアクロバティックな建前で、国のオカネでやる事なのかと思う。真に鯨が伝統食なら、市場は消えない。少なくとも野沢菜くらいの需要はあるだろう。それが現状より大きいか小さいかは、市場が決める事だ。
IWCが非科学的で、感情論の巣窟だと言うなら、脱退するのが筋なんじゃないだろうか。筋を通さずにアクロバティックな建前を使うから、この手の不埒者の跳梁を許してしまうのぢゃないだろうか。