Anonymousの善意の限界を超えた例。

最初はなるべくネット上の多くの意見を取り入れて制作、進行すべきと考えていた。だが最近はどうも、ネットの善意というものを不特定多数の人に求めるのは無理、というか無謀なのではないかと感じている。やはり人はAnonymousになると、斜に構えたり、ネガティブな意見をぶつけてみたくなる衝動を押さえられないのだろう。そしてそのテーマは、ネットの教科書の内容そのものでもある。

 前回の記事(「NHKスペシャルの衝撃〜企業広報が「覚悟」すべきディスコミュニケーション」)に対しては、多くのコメントを頂戴しました。ありがとうございました。
〜〜
 日経ビジネスオンラインのコメント欄は匿名で記入することができますが、世間で言われているような「匿名という壁に隠れて好き勝手言いやがって」といった指摘は当てはまらない、「ポジティブな価値」を、私は感じることができました。重ねて御礼申し上げます。
〜〜
 そして、今週なのですが、また最後に、皆さんのご意見を伺いたいと考えております。

今回の事件(*「毎日jp」事件*)に関しては、毎日新聞の側に重大な落ち度があったと見ています。
〜〜
しかし、勝者=正義のネットのユーザー。敗者=ヘマをした毎日新聞。ということで、「以上終了」とできない、モヤモヤがいまだ心の中にあるのです。
〜〜
 それは、私がこのことに関して、公の場で文章化することに躊躇してしまうことの最大にして唯一の理由です。それは「このような匿名の刃の向き先が自分に向かってきたらどうしよう!?」という恐れです。
〜〜
 それを乗り越えて、今回、文書にまとめているのは、前回のNHKスペシャルの番組に関する私の視座に対して、キチンとした批判が集まったことによって「この場所であれば、ちゃんと会話ができる」という安心感を持つことができたからです。

 「ちゃんと会話ができる場所」を形成したのが須田伸さんの過去記事の蓄積なのか、それ以外のナニカなのかは知らない。「日経のカンバン」ではないように思う。過去に匿名ネガコメに潰された書き手を見た覚えがあるし。

 過去の書き物からして、コデラさんに匿名の刃が向かうとは自分には思えないのだけど、彼の心配は他にあるように思える。

 僕はプロジェクトリーダーとして、教科書の制作に関わってきた沢山の協力者のモチベーションを守る責任がある。つまり「ネットでクリエイターの心が折れる問題」に直面することになったわけである。

 自分自身は「記事欄舞台、トラコメ客席、ハテブはテレビの向こう側」と思っている。実はこれには続きがあって「そこで心が折れるならそれまで」と思っているのだけど。

 匿名と顕名ではインパクトにすごい違いがあるのだろうし、ツルミでやってっとソロではわからん配慮がいろいろ要るのかもしんない。チーム全員顕名っぽいしMiau系。

 ひとつには「教科書」という「マチガイがあっては許されない存在」っぽいタイトルが逆にプレッシャーになっているのではないかとも思う。

 「ガイドライン」とか「手引き」とか。「インターネットのしおり(歌集付き)」とか、ユルくてもいいんじゃまいか。どのみちベータだろうがリリース版だろうが、見物はやいやい言うのだし。