中山国交相の発言内容(抜粋)より《成田空港》

 (滑走路の)1車線がずうっと続いて日本とは情けないなあと。「ごね得」というか、戦後教育が悪かったと思うが、公のためにはある程度自分を犠牲にしてでもというのがなくて、自分さえよければという風潮の中で、なかなか空港拡張もできなかったのは大変残念だった。

 先鋭化して以降の反対運動は疑問だし、現状「ごね得」化しているように見える部分はある。滑走路拡張もままならず、仁川上海浦東広州白雲、などの後発ハブ空港に見劣りするのは甚だ残念ではある*1

 しかしながら、Wikipediaの成田空港問題(年表の項)を見ると、成田以前の候補地の段階で、反対派が血判状を出していたり、千葉県知事室に乱入していたり、千葉県側が「事前連絡不充分」と不満を表明していたり、千葉県知事が「政府に条件を提示しない。地元住民に説得もしない。事態の推移を見守る」となにやら投げ出すかのような事を言っていたり。する。

 現在の成田空港は、この混乱を避けて計画規模を二分の一に圧縮し、立ち退き住民の少ない三里塚御料牧場を中心にしたものだが、この計画の表明後5日あまりで3000名が三里塚新国際空港反対同盟を結成している。この点につき、dfltweb1.onamae.com – このドメインはお名前.comで取得されています。では:

三里塚は戦後に開拓された土地だ。満蒙開拓団から引き揚げてきた人たちが入植した。苦節二十年。ようやく実りが得られるようになったとき,富里から急転直下で三里塚に空港予定地が変更された。
(中略)
満蒙開拓,入植地の開拓と農民は「国策」に殉じた「公的精神」に富んだ人たちだと思う。「仏の顔に三度」はなかったということだ。

と述べておられる。

 その後、反対運動は各党派やセクトの合流やベトナム反戦運動も混じって先鋭化してゆくが、反対派農家の「婦人行動隊」「少年行動隊」などの字面は、なにやら「三里塚総動員態勢」とゆう印象を受けた。

 とりわけ「老人行動隊」燃える。「人糞を用いた抗議行動」はなんか、これが一所懸命という事か!という印象を受けたし、「御料牧場の存続を宮内庁に請願」に至っては、ようするに「直訴」ぢゃないのか

 その後、武装したガードマンが反対派を襲撃、私服公安刑事が木刀で反対派を襲撃、機動隊が反対派施設(「野戦病院」)周辺の街灯を叩き割り電線を切ってから侵入、その場にいたスタッフを「指揮棒」で乱打。青年行動隊の一人が「空港をこの地にもってきた者を憎む」と書き残して自殺。成東署員が、地元の14歳の少女を反対派支援者と誤認して、暴行、連行、拘置3時間。反対派が千葉県収用委員会会長を路上で鉄パイプで襲い、重傷にした上で「家族ともども処刑台に乗っていると思え」など組織的な脅迫を加えて収用委員全員を辞任に追い込む、などなどなど。電車でゆけるパレスチナみたような状態になってゆく。

 全体としてWikipediaの年表は、反対派の視点で書かれている印象が拭えないし、テロもゴネ得も支持できないが、これは「統治の失敗」でもあるのぢゃないだろうか?当初の政府のネゴの進め方に拙速な部分や、強圧的な部分がなかったか、その後も官僚の無謬主義がモンダイを拡大した部分がなかったか、疑問に思う。

 なお、ドイツのミュンヘン国際空港は、成田空港を反面教師として研究し、建設の決定から着工までに20年ほどかけて反対派を十分に説得、着工後5年ほどで完成しているそうな。

 現状の成田の情けなさを考えるとゴネドクもえーかげんにせぇと言う気にもなるが、『戦後教育が悪かった』とか『公のためにはある程度自分を犠牲にしてでもというのがない』とか『自分さえよければ』というあたりに原因を求めるのは「わかりやすい悪者叩き」に堕すリスクがあると思った。

*1:特に日本の地方都市から海外へ出る場合、仁川へ直行して乗り換えるのが最も便利だったりする。ハブ空港というのは多くの路線が集まる「新宿」や「池袋」や「渋谷」のようなもので、成田は西武新宿線沿線住民にとっての「高田馬場」みたいなもんだと思ってる。狭い古い汚い拡張がままならない