「21世紀のソニーらしさ」は、20世紀のそれとは違っているべきだ。

今回の施策の狙いは何か。端的に、ソニーの「アップル化」と「サムスン化」であると私はみている。

自分もそー思う。麻倉氏はそれを残念な事と言っておられるのだけど、自分としては、その二つを同時にこなせるのはSONYの他にあまりないと思う。

サクヒン →蛇口 接触
- iTunes/App Store →iPods/iPhones/ドデカiPod(?)/Apple TV
SCE/SPE/SME PS3 PSP/ケータイ/Walkman
SCE/SPE/SME →テレビやPC

現在のサクヒンビジネスで起きているのは、この「娯楽のバリューサプライチェーン」の系列化だ。Appleはもちろん、MicrosoftNOKIA「川上から川下まで。可能な限り自社で。」を目指している。蛇口を抑えてしまえば版元などキングではない。接触窓を抑えてしまえばコンテンツなどクイーンではない。全てのデジタルエンターテインメントが向こうから寄ってくる。サクヒンビジネスの変わり目では、こうした事はしばしば起きる。例えば20世紀前半には、ダレもが「客を自社系列の映画館で取り囲む事」を目指していた。

ここで他社の追随できない「ハイテク」に夢中になりすぎると「演し物のない立派なホール」ができてしまう。リターン・オブ・研開費がやたらに低いで済めばまだ良いが、会社が傾きゃ土建利権を笑えない。

変化したのは「伝播回路」なのだ。映画に音がついたわけでも(トーキー)、絵の出るラジオが出たわけでも(テレビ)、テレビに「触れる」ようになったわけでも(ゲーム)、ない。変化しているのは「流通」なのだ。映画も音楽もゲームも本も、そしてそれらの代金も、「bit」のままでやり取りできる。変化したのは「蓄積形態」なのだ。ハコなんか要らないケースなんかいらない。ビュワーがあれば良い。いつでもどこでもどんな時でも「自分のライブラリ」を呼び出せれば良い。

appleのものつくり」なぞ二の次だ。ユーザーライブラリを握る者が全てを支配する。

appleと差別化するにはオープン化が必須だ。ただし、それは一方通行でなければならない。既存のユーザーライブラリ(CD, DVD, iTunes, WMP)を、取り込める事は必須だが、逆の流れは可能であるべきでない。そして、この「ライブラリのダイオード」は技術的手段ではなく、心理的手段でなければならない。

FMラジオ付きのiPhoneは存在しない。ワンセグ付きiPhoneはあり得ない。appleにバラエティはない。それを可能にする技術も資金も人員も無い。ここでSONYの地力が活きてくる。もしもSONYが独自のDRMを開発し、iTunesライブラリを取り込めるユーザー・ライブラリ・マネージャを開発し、それを全ての自社製品に実装するなら、彼らの独走を止められる可能性がある。必要なら他社にライセンスしても良いだろうが、ユーザーの購入アカウントと機器認証だけは自社の手に握っておくべきだろう。

ただし。ブラビアでは無理だ。VAIOでは無理だ。Walkmanでも無理だ。これらレガシー・プロダクツは、歴史的に、社会的に、ひとびとの脳内イメージ的に、20世紀のサクヒンビジネスを引きずっており、オープンであり過ぎる。だが、PS3/PSPを足場にすれば、心理障壁は少ない。

数を売るにはレガシー・プロダクツのサムスン化は不可欠だ。液晶付きWalkmanなど要らない。音楽専用のPlaystation shuffleで十分だ。テレビなんざ映りゃいい。重要なのはコストパフォーマンスだ。それらはデジタル・ハブにぶら下がる、Playstationブランドの周辺機器であるべきなのだ。ブラビアVAIOWalkmanは、ブランド価値が残っているあいだ「有償頒布の試作品」として使えばいい。

...と、いうような事をやるには、大規模な事業構造の見直しと、大規模なブランドの整理、組織再編、そして人員の再配置が必要だ。まず官僚ヒエラルキーをフラット化する必要がある。

復活の鍵は「20世紀のソニーらしさ」からの脱却にかかっている。グループ内の「サイロ」は叩き潰さねばならない。自由闊達と我侭をはき違えた「武官(エレクトロニクス開発陣)」は切り捨てなければならない。「ノット・インベンテッド・ヒア症候群」や「ハイテクハイテク日本はやっぱりモノツクリ教」は撃滅しなければならない。

最終的には、客にファイルを渡すべきでない。いつでも、どこでも、どんなデバイスからでも、鯖から呼べれば問題ない。最も妥当な鯖位置は.....衛星軌道?