児童ポルノの単純所持禁止について。
- 最も優秀な児童ポルノ捜査官は、被害者自身と思われる。
- ご本人、父母、友人、親戚。
- 検索し、鯖を突き止め、通報する熱意は、彼らが最も高いと思われる。
- 次に優秀な児童ポルノ捜査官は、「子供を守る親の会」と思われる。
- その次に優秀な児童ポルノ捜査官は、サイバー・ガーディアン・エンジェルズ(ボランティアの自警団みたいの)と思われる。
- 最後に、「児童ポルノの配布、販売鯖」に「通報報奨金」を掛けるなら、ちょっとした小遣い稼ぎになる*1。
特に4番は、おまけで「オレ、いいことしたなぁw」的なプチ満足感がつくだろう。戦いは数だよアニキ。
「単純所持の禁止」は、こうした「有効かも知れない手段」の可能性を潰し、「みんなが安心に暮らせる社会」のありようを、警察に委ねる度合いを増やす。
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「限りある警察力」は、まず以下の部分の救済に手厚く配分されべきものである。
- 拉致被害児童
- 強姦被害児童
- 盗撮被害児童
- 買春被害児童
- 「わけもわからずポーズ取らされてる被写体児童」*2
仮にもし、日本の警察力が単純所持摘発に忙殺されるような事があれば、我々の社会は、「上記の不幸を箱に詰め、見なかった事にする社会」との批判に耐えない。
もちろん「そんな事は許されない」。しかし、警察の予算と人員に限りが有ることも動かし難い。法規制は、彼らが喫緊度の高い捜査に集中できるよう、支援すべきものである。
児童に対する性的虐待は根絶されべきである。しかし、特定性欲者の撲滅が困難である事も、確実である。古来、孤児院における性的虐待の疑惑は絶えない。主な被疑者は聖職者である。
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また当然ながら、実写と被害児童の存在しない創作物(絵や文字)の間には、一定の区別があってしかるべきである。
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保護の望ましく無い「児童」
未成年であっても「自己実現の自由」は存在する。一般にこの自由は、若年者が未成熟である事を理由に保護者が代行するが、成年と未成年の区切り方によっては、自己責任で「脱ぐ、水着になる」などの選択を行う「成熟度の高い未成年」から、自己実現の自由を奪う事になる。
- 宮沢りえ(脱いでる)
- 中村みう(脱いでないけどギリ)
- 沙綾(脱いでないしギリでもないけどどーなんだ)
数字でいえば、成熟した未成年(もちろん、性的な意味ではない)は、ごくごく少数派ではあるが、しかるべき判断能力を備えた個体から「自己実現の自由」を奪う事は、まがりなりにも自由を掲げる国家の名折れと心得る。
もちろん、一部の芸能人の為に一般児童の保護を緩めるのは馬鹿げた話だが、同種の弊害は、成年と未成年の区切り方が粗雑であるほど、多くなる。法体系における「児童」や「未成年」の区切りを、局面ごとに、下表よりも細分化すると、この弊害を減殺できる可能性がある*3。
- | 10歳くらい | 16歳くらい | 20くらい |
保護者責任 | いっぱいある | そこそこ | あんまない |
社会全体で保護する必要性 | いっぱいある | そこそこ | あんまない |
自己責任 (自己実現の自由) |
あんまない | 撮影会のモデルやりたい? うーん...どどど、どういう人がくるんだ? (いや焦ってはイカン) どどど、ドコで知ったんだ? (いや根掘り葉掘りはイカン) |
100% |
「適切な保護」が「不十分な保護」と異なる事は勿論だが、「過剰な保護」もまた、弊害をもたらす。一方の弊害に目をつむると、世の中の半分は敵に回る。他の事ならともかく、児童保護でそれは、なんだろう、、、似つかわしくない気がする。
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メディアの真似をする問題。
実写だろうと、まんがだろうと、児童ポルノとの接触が現実の犯罪を誘発する可能性は、ナシとしない。
かつて日本では、「ウルトラマンの真似をした暴力」や、「仮面ライダーの真似をした暴力」が社会問題化した時期があった。この問題が残した「歴史の教訓」は、以下の2点である。
- 成熟度が低い個体ほど、摂取情報の影響を受けやすい。
- 慣れてない社会ほど「どう接して良いかわからないよ!」
従って、対策も2種ある。「社会全体が慣れる」と、「提供業者側の努力」である。
- 「社会全体が慣れる」とは、「真似が問題なのではない。創作物じたいはよくも悪くもない。「暴力」が問題なのだ。」という社会通念が一般化する事である。
- 「提供業者側の努力」とは、「良い子のみんなは真似しちゃだめだぞ!」の事である。もしも提供者が、自らの生業に誇りを持ち、「持続可能な発展」を望むなら、「客よし、店よし、ナニが悪いの?」では足りない。「客よし、店よし、世間よし」が必要である。
蛇足ながらこの「歴史の教訓」は、ジャパン・オリジナルである*4。
児童に対する性的虐待は根絶されべきである。具体的な児童被害は防がねばならない。しかし、我々に性欲がある限り、ポルノの根絶が困難である事も、確実である。
真似が問題なのではない。「性暴力が問題」なのだ。
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「表現の自由」と「社会的な許容範囲」のバランス。
イ)「社会的な許容範囲」は、以下二つの要素で変化する。
1)文化プレイスシフト:
- これは、個々の社会や文化の有り様による違いである。端的に言うなら、欧米と同等の規制は日本社会に必要か?という問題の検証が必要である。
2)時流タイムシフト:
- こちらは、時間の経過による変化である。現在の社会通念から見て「当然の規制」は、とうぜん敷かれべきものだが、「将来の社会通念の変化に対応し得るシカケ」を備えていない場合、これは「未来の過剰規制」になり得る。
特に日本国の場合、「官憲が一度手にした規制権限を手放さないこと半世紀前のダム計画の如し」という特徴を持っている。ここに「欧米と同じ規制」を乗せた場合の結果は未知数である。
ロ)表現規制には2種類の方法がある
1)論理駆動のディベートサイクル
- 「世論沸騰 → 議事堂でとことんバトる → 法規制成立 → やがて社会通念がシフト → 議事堂で追いバト → 法改正」
2)空気駆動の自主規制サイクル
- 「世論沸騰 → 自主規制 → やがて形骸化 → 世論追い炊き」
前者は英米流、後者が日本流。それぞれにメリットとデメリットがあるが、日本流に、欧米流の結論を乗せた場合の結果は未知数である。
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児童ポルノ規制は世界を股に掛ける大問題なので、グローバルスタンダードに合わせなきゃヨソ様の減殺努力のアシをひっぱる。という問題は残る。
しかし、
- 1)毎朝の牛乳パックに行方不明の子供の顔写真が載っているのが「ふつう」な社会や、スナッフ・ビデオの恐怖が洒落になってない社会で、
- 2)性行為そのものを「原罪」と看做す道徳の色濃い人達が、
- 3)論理駆動のディベートサイクルで作った、規制の結論を、
- 4)空気駆動の自主規制サイクルにそのまま上乗せするのは、
、、、いかがなものかという感じがしないでもない。
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自分は「ネットに蔓延る凄惨な児童ポルノ写真」というのを見た事がない。見たら考えが変わるのかもしれない。
しかし「単純所持禁止」は、見ろ!これを見ろ!!これを見てもそんな事が言えますかアナタ!!!が禁じ手になる。
それは、児童の保護や被害者の救済の為には、手痛い損失だろう。「論より証拠」「百聞は一見にしかず」は、最終兵器として取っておくべきではないだろうか。