3)「社会の側」でできそうなこと
究極的には『東京一極集中をなんとかする』なんだろうけど、そういう事ならまずは「分散」だ。次に「逆に考えるんだ。加速しろ!」だ。
どっちかにしなさい!て感じだけど、やっぱこれらを総合した『東京デフラグ計画』みたいのを期待してるんですのよ小池サンにわ(年上属性)。
1)分散する
プレイスシフトする
でも首都機能分散て結局根付かないよね。きっとみんな幕の内弁当が大好きで、さびしいと死んぢゃうんだよね。
んじゃいっそ遷都とかどうよ?。皇居を松代に御動座願うとか。手本はミャンマー軍事政権w。いやいっそ奈良平安の故事に倣って、100年くらいで流浪するとか。国体にならって4200年掛けて全国一周すると、「均衡ある国土の発展」が完了する。
タイムシフトする
要は「時差通勤・時差通学」だと思うんだけど、永年云われていながら結局のところ根付いてない。学校にしたって職場にしたって、やっぱ「朝礼」は朝でないと気分がでないのだろうし。
特に職場で時差通勤が定着しないのは、結局のところ日本人のワーキングスタイルが「個人タスク」ではなく、「ほうれんそう」を土台にする「集団タスク」〜いわば群体動物〜だからなんジャマイカ。
で・あれば、時差通勤は個人単位でなく、「属性で分別した集団単位」でやりゃあいいんジャマイカ。的な妄想に基づいて以下。
■学校
登校時刻を
- 早める
- 遅める
- ばらつかす。
「早める」と「遅める」は、「学校だけサマータイム」的なナニカ。「朝礼は朝でないと気分がでない」とか書いといてイキナリかいという気もするが、「早める」でも「遅める」でも、部活、バイト(社会経験 and/or 学費の足し)、社会奉仕、遊び、etcに充てる時間をまとまった形で増やせる。別に塾に充ててもいいけど。
「早める」のほうはたぶん1時間が限界だろう。それ以上だと先生がツライし、遠距離通学だと通えない子が出る可能性がある。
「遅める」の方は、学校の自由度が高い。ぶっちゃけ全日制と定時制の中間的な高校を想定している。「午前中で済むバイトの掲示板」がある高校とか、アリでないか?私立公立のどっちでも。
「ばらつかす」は、大学同様の選択授業制。これは高度な教育を謳う私立や、ちょっとトンガッた地方自治体向け。
もちろんこれらは「教育のありかた」から出るものでなくてはならんのだが、都合の良い事に「教育課程の見直し」というのは、いつの時代でも動いている問題だ。このように書くと教育の格差化を推進するのかオレはという気もするが、「理想の教育」とは「均質な教育」ではなく「その子に合った教育を選べる事」だと思っているので。「半定時制」でも、ものっすごく高度な授業をして高い学費を取る代わりに、ワリのいいバイトも集まる学校てのは成立しないもんだろうか。
■育児者
- 育児時短
育児休暇に加えて、学齢前児童を持つ親の勤務時間を11時〜16時に制限、ないしはその権利を法制化する。
肝心なのは以上。以下余談。
企業的には中堅人材の損失だが、少子高齢化対策は本邦喫緊の課題であり、その損失は、これまた本邦喫緊の課題である労働生産性向上*1で補完し倒さねば明日は無いものと考える。
話は飛ぶ。「ひきこもり支援」だ。これまた耳学問になるのだけど、
自分の理解では。「ひきこもり支援」の要諦は「僕はここにいてもいいんだ感」の充填。つまり基底原因は、「素直な気持ち」を尊重してもらった経験の不足にあると考えている。
「素直な気持ち」を尊重してもらった経験が十分に貯まれば、引きこもりはおのずと自立する。より多くの「僕はここにいてもいいんだ感」を求めて、他人との関わりを求めるようになる。のだそうな。
単に「甘ったれてるだけ」のケースには「叩きなおし」が必要だが、その見分け方に正解はない。「間違っている」「不同意である」よりも、まず先に「相手の人格を尊重する」事が第一である。
「叩きなおし」の前に不可欠な要素は、細心の観察力と、「この人は僕の素直な気持ちを尊重してくれる人だ」という信頼関係だ。その信頼関係がないところで「べき論」を振るうと、当面の外面は保てるかもしれないが、内面は「シンちゃん化」してゆく。
以上の作業は、必ずしも「親の責任」とは考えていない。誰にとっても育児は「初めての経験」なので、匙加減はわかりにくく、間違いもする筈だ。親を責めて済む話ではない。しかし、この作業に賭ける熱意に於いて、最適任者が親である事も否定できない。
他人の「素直な気持ちを尊重する」事は、余裕がないとできない。例示すると、
-
- 他人の愚痴にとことん付き合う*2
- 一人だけ高みに登って「こうすりゃいいぢゃねぇか」と言うのを我慢する。
- など
さらに細緻な実例は以下で読める。
ここに出て来る「葛粉の母ちゃん」はマジで凄いぞ。あなたが神だ!!!!
、、、いやそこで終わると『「社会の側」でできそうなこと』というこの項のタイトルがgzgzになってしまう事に気付いた。今*3。
もしも社会全体として、「葛粉の母ちゃん」や「店長」になれない個体が増えており、その結果として「ひきこもり」が増えているのなら。簡略な仮説をたてるとこうなる。
- 高度成長〜バブル期は、「普通」や「世間並み」の達成が容易な社会だった。
- あーしなさい。こーしなさい。良い大学入って良い会社入って人の上に立つ人に。XXのような立派な人に。ふつうに。世間並みに。「あたりまえ」に。など。
- こうした「規格化圧力」については別の機会にしたいが、「日本人の資質」とかではなく、歴史的要因で最強に強まった日本史上の特異点と考えている。競争の存在やその激化が問題だとは考えていない。モノサシの一本化が度を超した事が問題と考えていますよ。
- コレは反発を生む。
- 「ママゴトやりたきゃ人形でやれ!」など。
- 過剰な領域に達すると、反発の気力も摩滅し、
- 文字通りの意味で「ママゴトの人形」と化す。 ← シンちゃん化*4。
- これが、自己肯定感をもたらすものへの「耽溺ないし依存」を産む。
これらに耽溺する個体に「そんなんぢゃなくてもっとほんとうの」と、上から目線で言い放てば、ますます耽溺の度を深めてゆくだろう。耽溺し、依存と云える程のめり込むという事は、他に「僕はここにいてもいいんだ感」を得られる場所が少ないと云う事だ。
すべてのエンターテインメントは「気散じ」である。需要なきところには発生も隆盛もない。もしそれが問題の周辺で目立つのなら、それは、問題の所在を示唆しているだけだ。問題は耽溺にあり、依存にある。
科学の名の下に、教育の名の下に、それを「原因」と糾弾し封じ込めるがごときはニセモノである。断じてその名に価するものではない。
- 「ボクはここにいてもいいんだ!」感なきものは、他者にも厳しい。
- 「ボクはここにいてもいいんだ!」感なき社会は、他者にも厳しい。
おおむねそんなような事を、たまに思う。朝っぱらから喧嘩すんなよお互い様なんだから。と思った時とか。「常考」とか「ミソジニー」とかのタグ同士がバトってるのを見るたびに思う。
もちろん、誰もが「葛粉の母ちゃん」になれるわけではない。『「社会の側」でできそうなこと』は、学齢前児童を持つ親に、子供の素直な気持ちを尊重する余裕を持てるよう努力するくらいぢゃなかろうか。
「育児時短」は、企業的には中堅人材の手痛い損失だが、現在の日本の企業風土は、高度成長期に固まったものであり、その直接の下敷きは「国家総動員体制」にある*5。
多数の若年労働者が少数の中高年を支える構造は、全て人口ピラミッドの変化に応じて組み替えていかねば、明日はない。それでなくても、少子高齢化が進めば進む程、「まったく近頃の若いモンは」と云われる機会は増えてゆくのだ。
図:http://www.ipss.go.jp/site-ad/TopPageData/2050.gif 出典:国立社会保障・人口問題研究所 |
■非・育児勤労者
- 根本的な「時短」
そもそも日本人の平均労働時間は長い。発展途上国ならともかく、先進国を名乗るには異常に低い労働生産性だ。なかんづく、ホワイトカラーに顕著。
ありていに云うと。
-
- ノンワーキングリッチは電話くらい取りやがれ
- 大学は電話の取り方くらい教えやがれ
みたいな。実はその程度で地味に違ってくると思うんだけどもw。
2)逆に考えるんだ。加速しろ!
いい加減長いんで簡単に。
職住一体化
「職住接近」もまた永く云われているが、やっぱ地価高いしなんともかんとも。なんか摩天楼みたいな高層住宅があちこち立ってはいるんで、近郊宅地の容積率が緩和されたんだろうなとは思うけど。
でもなぁ。もっとズドンと都心に住めませんかとゆうカンジだ。100F建てで、上半分がオフィスで下半分が住宅。みたいの。1Fが店舗類で50Fがコンビニで託児所で。屋上が緑地。みたいの。
そんな自社ビル建てられる会社なんてあるわけないから、共同出資で。いくつもの会社が入ったビルなら「社宅感」も多少はやわらぐのではないかと。
それにこれ、厄介な「日本の企業風土の転換」を伴う「育児時短」が少なくて済む。