「表現の自由 V.S. 公共の福祉」と「BPO V.S. 総務省」

「二重行政」を特集したTBSの情報番組が事実と異なる内容を放送した問題で、NHKと民放でつくる放送倫理・番組向上機構BPO放送倫理検証委員会は17日、「委員会で(放送倫理に違反するか)討議中と知りながら、総務省がTBSに行政指導をしたことに重大な懸念を抱く」とする川端和治委員長の談話を発表した。

たしか総務省側としては、「行政指導はBPOの動きなども見て総合的に判断」とかなんとか言っていたかと思う。「報道の自由」で喰ってる層のフロント団体としては、『重大な懸念を抱く』と云わざるを得ないだろう。

(国内放送の放送番組の編集等)
第3条の2 放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
1.公安及び善良な風俗を害しないこと。
2.政治的に公平であること。
3.報道は事実をまげないですること。
4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

よーするに「BPO V.S. 総務省のバトル」は、「この条項を誰が主導するか」の主導権争いだ。

1)まず、「NHKと民放でつくる団体」が、「自分たちのやっている事」を倫理的に検証できるのか。という構造の問題が存在する。委員のみなさんがどういう思いで働いておられるかは知る由もないが、要はカネのデドコロだ。自立なき組織に独立した見解は成立し難い。国内では成立が難しいが、本来これは「善男善女の喜捨浄財で支えられた、自立機関」が検証するのが望ましい筈だ(NGOないしはNPO補助金頼みの「NPO法人」は違うよ)。

2)その一方で、「公安及び善良な風俗を害しないか?」や「政治的に公平か?」や、「事実をまげてないか?」や、「できるだけ多くの角度から論点を明らかにしているか?」などの解明を、総務省の行政指導に任せ切ってよいのか?という問題が存在する(表現の自由)。

3)で、これを「表現の自由 V.S. 公共の福祉」と捉えると出口のない泥沼に陥る。問題は「電波の希少性」にある*1
端的には出版業界だ。

3-a).出版業界では、この手の問題は裁判所に持ち込まれる。

どちらが正しいかは知る由もない。しかし、もしも「押し紙」が存在するなら、手がける者は「世間の目を意識」し、「手控える局面」を増やさざるを得ない。これがニュースになるだけで、だ。地下化したとしても、新潮社は追いかける。新潮社が追わずとも、どこかの誰かが必ず追う。そこにニュースバリューがある限り。これが相互チェックというものだ。

これは「全国紙の団体で審査」よりは、ややマシだろう。「役所が法律を楯に行政指導で口を挟む」よりは、かなりマシだろう。当事者同士で「吐いたツバのまんとけよ?ゴルァ!」で、充分。戦車には戦車、歩兵には歩兵。マスコミにはマスコミ。

これは、当事者候補に、充分な数がある事が前提になる。当事者候補の実力、すなわち社会的影響力が肉薄している事が前提になる(カテドラルも良いけどバザールもね!派)。

出版業界でなぜこれが成立しているかというと、出版業に免許はいらないからだ。印刷物が安いからだ。

3-b).放送法が番組内容に口を出す理由。
「電波は有限」だから。「交付できる放送免許数に限りがある」から。「テレビ局は死ぬ程オカネがかかるので、開局できる人が少ないから」。「絵の出るラジオは、社会的影響力がスゴい」から。というわけで、こういう事(↑放送法第3条の2)が法律で決められている。
、、、でもそれすんげぇ昔の話。「デジタル」で結構変わる筈なんだよね。その前提。

3-c).電波が足りぬと云うのなら、増やしてしまへばいいじゃない〜マリー・アントワ(言ってねぇ)
「テレビのデジタル化」は、本来は多ch化に主眼がある。「電波の希少性」を緩和するものだ。イメージ的には、もしも「人間縮小光線」で、人体のサイズを半分くらいにできるなら、満員電車のイス取り合戦は、良いカンジに助かるだろう。みたいな。
端的な例はケータイ。アナログケータイの全廃とデジタルケータイへの移行結果は以下の通り。

  • 同じ電波でより沢山の情報をやりとりできるようになった。
  • 同じ電波で加入者数を増やせた。
    • 電話機代が下がった。
    • 電話代が下がった。
  • 同じ電波でi-modeとかできるようになった

最近では、「ヤクザみてぇなおっさん」しか持ってなかった昔はちょっと想像しにくいと思うんだけど、、、おもわず「遠い目」でモノを云うと、「デジタルの本質は安かろう悪かろう。余った部分でなにしよう?」だ。

これを「テレビ」に当てはめると、現行放送をそのまま(画質も音質も付加サービスも変えずに)デジタル化すれば、電波は希少でなくなる。交付し得るch数が増える。多ch化で、個々のchの影響力が「個々の全国紙」や「個々の週刊誌」に近づけば、彼らが相互に「吐いたツバのまんとけよ?ゴルァ!」とバトる確率が上がる。そうした相互チェックが増えれば増えるほど、我々の社会にとって「放送法第3条の2の必要性」は薄まってゆく。

3-c)デジタルとハイビジョンは混ぜちゃイケナイ洗剤。
ハイビジョンは、その歯止めになる。交付し得るch数を減らすからだ。この結果、既存のTV資本(NHKと民放)の社会的影響力は保全される。従って「放送法第3条の2の必要性」に基づく総務省の権限も保全される。ついでに国際価格競争力を失いつつあるテクノザウルスの食い扶持も保全する。グルだ!と断じる証拠はないが、以心伝心・腹芸交渉の世界では、もともとそんなもの残らない。ぶっちゃけ自覚もないだろう。それぞれに自己の利益を最大化すべく、日々アタマを捻っているダケで。

その反面。「国民総うけとれる情報のバラエティ量」は減る。画質向上?くそくらえだw。そんなものより「グロス・ナショナル・アクセシブル・インフォメーション・バラエティ」のほうが、よほど価値があると思うね。天下万民の為にw。

*1:不可視型探照灯さんの云う、『さっさと放送法第3条の2項1を削除してしまうほうがいいかもしれない』は、「さっさと」の部分に懸念が残るが、他の部分は同意。