「究極」対「至高」

例えば、iPod」はネットーワークと「iTunes」という上位システムのサブシステムとして見ることもできる。そこをどうオープンにするかがポイントとなるようだ。つまり、「アップル・アウトサイド」モデルは、完成品を中核としてそこをクローズにしつつも、上位と下位の両方のレベルでオープン領域を設けている。
このあたりはややこしいのだが、同書ではこうした状況を「レイヤー」で考える。

イヤ、『見る事もできる』って、それぢゃスタンダードな見方ってどんなんだ。バラして実装が雑だ!とか、バッテリが糊付けだ!とか、ウチならこんな作り方はしない(キリッ)とか、そんなカンジか。まさか、ファミコン時代もプレステ時代も、そうやって「上から目線」でスルーして来たのだろうか。

どんな立場も全体の奉仕者であって、なにかの上位に立つ事もあれば、なにかの下位にたつ事もある。食べてくれる人あっての農産物、食べてくれる人あっての料理人ではないか。重箱の隅をつつくようだが、「技術者を応援」する専門誌だからこそ、職人至上主義クサい言い回しは、注意深く排除せなならんのではないか。なんか「技術より上位の概念」を仮想したほうがいいんでないか。

  • Q:『技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか』
  • A:究極の塩鮭に拘るあまり、おべんとうのバランスを見失うなど片腹痛いわふははははー(海原ジョブス猊下)。

とか。なんかそうゆうの。