薬害と副作用

(*NYTに送る原稿に*)民主党が最初に対峙する重要なイシューとして、新型インフルエンザについて、国産のワクチンが足りないことと、海外の製薬メーカーとの「免責条項」を巡る 問題を書いたのですが、厚労省の対応を書いても「まったく理解できない」という反応がありました。日本社会とメディアが、副作用と薬害を混同する傾向を 持っている例としてタミフルを挙げたのですが、「どうしてそんな非合理なことが代表的先進国である日本で起こるのか、まったくわからない」と、理解されま せんでした。

ゲンミツには違うと思うけど、一応、薬害と副作用は次のように理解している。

  • 薬害:人為的に避けられた筈のもの。怠慢や無責任や、承認プロセスの欠陥で起きるもの。
  • 副作用:人為的には避けられないもの。現在の科学では解決が至難のものや、事前に予測できなかったもの。

例えば「メタミドホス入り餃子」は薬害に近いが、「サリドマイド児」は副作用に近い。どっちもたいへんに不幸な話だが、後者については、それを必要としている患者さんにまで禁止するのはどうか。という事も考える必要がある。

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インフルエンザのワクチンにせよ、治療薬にせよ、一定の確率で副作用が存在する。さらに「新型」の場合、この「確率」がどれくらいか?粗々な予測はできても、ゲンミツには不透明だ。
そこで、損得勘定というものが入って来る。

  1. 無策で新型インフルの流行を迎えた場合の害
  2. 粗々な副作用予測で新型インフル対策を行った場合の害

この「害」には「どっちのほうが死亡数が少ないか」という「命の損得勘定」が含まれる*1。2番のほうが「マシ」と予測されるなら、2番を採るべきだろう。もちろん「死亡などあってはならない!」や「人の命は地球より重い!」というのは誰でも思う事だ。しかし、その思考回路で2番を実施した人の結果責任を追求してばかりの社会は、1番に近づいてゆくだろう。そういうのは「医学に対する信頼」とは言えない。良くて過剰期待、ありていに言えば、ないものねだりで身を持ち崩す愚か者に近い。

海外の製薬メーカーとの「免責条項」

というのは、「薬害」を見逃してやるからワクチン売ってくれ、ではない。「副作用」が出ても文句言わないからワクチン売ってくれ。と理解している。

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非・専門家にしてみれば科学も技術も「魔法」でしかない。「科学のチカラ」は、「イエス様に触れたらイザリが歩いた!」や、「仏の教えで盲目が直った!」と、「社会に与える影響」という点では大差ない。科学が宗教と同等か、あるいはそれ以上の信頼を受けるようになった世界では、「非・科学的!」と言う批判は「不信心者」や「罰当たり」と大きな差がない。「科学」も「宗教」も、縁なき衆生にとっては「奇蹟納得ユニット」に過ぎないのだ。

実は明治以来、促成栽培的に「科学のチカラ」を取り入れて来た日本は、社会全体としては、先進国で最も「科学技術過信」の傾向が深いのかもしれない。

これは「国民がバカなのだ!」と言う事もできる。しかし、一度その姿勢を取ってしまうと、容易に「民は依らしむべし、知らしむるべからず」に堕してしまう。「餅は餅屋。素人はすっこんでろい!」というキモチは誰にもあるが、お客様相談室(≒パブリック・コミュニケーション)を軽視すると、害の部分が目立つようになるに連れ、痛くも無い腹ばかり探られる事が増えストレスが溜まってゆき、無闇にモンスターなんちゃらとか言いたがる。うっかりストレスを増田やmixiにぶつけてしまい、ますます社会との距離が離れてゆく。などの諸症状が現われる。これを「キレやすい専門家症候群」と命名しますん。

あるいは「国民はバカ」は事実なのかもしれない。でもほかの「国民」と取り替えるワケにもいかないし、諦めたらそこで試合終了だって安西先生も言ってるし。

*1:「ふつうのインフルエンザ」でも死者は出る。ワクチンや治療薬の副作用も存在する。