白と黒

 そもそも黒を白というのが役人の仕事である。理路整然と嘘をつく能力こそ、役人に求められる力である。皮肉ではない。霞が関には「無謬性の原則」 という冗談が本気でまかり通っており、役所は絶対に間違いを犯さないことになっている。つまり役所の大原則自体が「嘘」なのだ。
 人間は年がら年中間違える。間違えてこそ人間だ。ところが役所は絶対に間違えないという大嘘の上に成り立っている。無謬性の原則は結局のところ役所に都合が悪いところは「嘘をつき通せ」ということに他ならない。だから役人の仕事は嘘をつき続けることになる。その嘘を公開の場で、どこまで理路整然とつき続けられるのか。

この記事の本筋は、スパコンでは全く嘘などつく必要がなく、堂々と必要性を述べればいいのに、あの役人の無能ぶりはなんだ、的な事が書いてある。役人さんについては、たぶんそうなんだろうなと思う。「あのスパコン」の必要性など自分には解る由もないが、運悪くそういうキャラに当たってしまった、というのはあるかもしれない。しかしここでは、スパコンは置いておく。

「ホントは黒だか白だか解らないけど、白と言わなきゃイケナイ」。これは役人さんに限った話ではなく、勤め人にはありがちな事だと思う。このように、既に出ている結論を与えられ、それを押し通す必要がある場合、人間は概ね3パターンに別れる。

内面 表面 説得力 備考
A)「まわりが白というから」白と信じる。 白と言う。 「まわり」は問題視しないが、「外部」には通じにくい。 全員一致の結論には、必ず致命的な欠陥がある。同調圧力の高い集団には、必ず外部のチェックが要る。
B)白でも黒でもどうでもいいが、喰う為に割り切る。 白と言う。 本人のスキル次第。 黒と信じる者は、より高度なスキルを持つ必要がある。
C)「自らの判断で」白と信じる。 白と言う。 信念や哲学が籠る。 黒と信じる者もゆらぐ。

■A)とB)について。
ある集団の内部に特定の結論、ないしはその結論の前提条件がはこびっていればいるほど、「いまいち説得力のない方」、「自分で言ってる事を自分で信じてないように見える方」、「疑う事を許されない嘘を懸命に信じ込もうと努力した結果、ちと痛ましいカンジが漂ってる方」、「LV.1マヌーサを乱発する割りに、一歩踏み込んで意味を問われるとキレがちな方」などが、出て来たとしても不思議ではない。

で、もしも中央省庁に、「無謬性の原則」が蔓延っているのなら、それは、濃厚接触者に伝染してゆくものではないかと思う。例えば、もしも財務省が黒を白と言ったら、銀行の方は白と言わざるを得ないだろう。白と言い続けるうちに自らもそれを信じ込み、中には役人さんより痛ましいカンジが漂う方もあるかもしれない。特定の官庁とお付き合いが深かったり、そこから貰う仕事やオカネや規制や支援政策が重要な分野ほど、病いは深くなってゆく。ハズだ。

(*04秋*)立食式の懇親会にて、ある半導体メーカーの元社長が、筆者を呼び止め、もの凄い剣幕で、「お前の言ったことはすべて間違っている」と叫んだ。さすがにカチンときた筆者は、理屈で応戦した。そのやりとりは以下の通りである。

  • 湯之上 「なぜ、あなたは、私の言ったことがすべて間違っていると思うのですか?」
  • 元社長 「日本半導体の技術力は、実際に高いからだ」
  • 湯之上 「なぜ、そのように判断できるのですか? どんな証拠があるのですか?」
  • 元社長 「おれの直感だ」
  • 湯之上 「あなたがそのように直感で感じるには、何かの根拠があるはずです。どのような根拠があって、そのような直感を持たれたのですか?」
  • 元社長 「日本の技術は本当に強いからだ」

湯之上さんが間違ってるかどうかは自分には知る由もないが、ほとんど宗教的なものすら感じさせる病み方だと思った。間違ってたとしても、社長さんまで勤められた方にしては、あんまり洗練されてない。80年代のデトロイト、例えばリー・アイアコッカだって、もう少しマシな受け答えをしたのではないだろうか。

04Q4当時の日本のメモリ業界に「考え得る限り最高の品質を作る技術」は、あったかもしれない。しかし「市場が求める品質を、市場が求める価格でつくる技術」は、既になかったのではないだろうか。例えばメインフレームのメモリに求められる品質と、PCのメモリに求められる品質では、差があって当然かと思う。

それは「技術」ではない、「市場適応力」や「経営能力」と言え。と言われればその通りだ。しかし、このレベルにまで宗教じみていると、「技術」ないしは「日本の技術は強い」というフレーズは、社会的な意味で「マヌーサ」や「メダパニ」になってしまっておりゃせんかと疑いたくなってくる。

どうも「技術」という単語は意味が曖昧で、幅広く在り過ぎるように思う。サイエンス*1やテクノロジー*2の領域を超え、「マーケティング」や「経営」や「資本の論理」にまで浸食してしまってはいないだろうか。さらに日本固有の「文系・理系」の区分により、個々人のデコード誤差が広すぎるのではないだろうか*3

技術は銭儲けの道具に過ぎない。「銭になる技術」がないなら、それは「強い技術を持ってない」。これは08Q4金融危機で突然に顕在化した問題ではなく、遅くとも1990頃までには意識されているべき問題だったように思う。

■C)について

  • 26日の仕分け作業で防衛省の備品調達に関する議論があった。その晩のニュースでも仕分け作業の統括をした枝野幸夫議員が防衛官僚の整然たる受け答えに感動したというコメントがでていたが、じつは私もまったく同様の感想をいだいていた。
  • 制服や弾薬などはコストの低い外国製にできないのかといったコストオンリーの視点ばかりを追求する仕分け人に対して、防衛省の役人たちは見事に「国防」の哲学で応じていた。それは「嘘」ではなく、国の防衛をになう人間としての責任感だった。
  • (中略)
  • ほんのわずかな時間だったが事業仕分けを目の当たりにすることで、考えさせられることが多々あったけれど、いまでも印象深く残っているのは装備品をめぐる防衛省の対応だった。
  • 「予算は哲学で担保されるべきものである」
  • 勉強になった。

構造的には。世間一般に重要と看做されていない者、価値がないと看做されている者、誹りを受ける事が多い者ほど、悩む。そこで自嘲的になってしまう方も多くはあるが、「自らの判断で」白と信じた者には、信念や哲学が宿る。そのことばは「みなが黒と言うから黒と信じる者」をもゆらがせるだろう。*4

■その他
他に、仕分け関連では毛利衛さんの評判が良いようだ。

*1:理学。妥協なき真理の追求。

*2:工学。望み得る最善の追求。

*3:実は日本の四年生大学てのは只の「カレッジ」で、ほんとうは、「ユニバーシティ」ではないのではないか。

*4:日本表現規制史年表』を辿ると、そゆ人がいっぱい出てきそうな気がしないではない。