自分自身は「ど」のつく文系なんで、間違いは多々ある筈。引退したらシステム工学のオープンカレッジとか行きたいw。
- サルでも分かる人文科学/社会科学/自然科学の見分け方(分割図つき) 読書猿Classic: between / beyond readers
- 「理系」「文系」の区分は日本だけ 「人文科学」「社会科学」「自然科学」の違い - Zopeジャンキー日記
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むかしむかし、予備校時代の友達が「文系か理系かで話奴はバカだ」と言ってたけど、なるほどこううことだったのね。
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以上をもとにした妄想を書いてみます。
ぶっちゃけて言えば、理系/文系の区分は「日本だけ」である(読書猿Classicさん曰く)。
「理系」「文系」という日本的な区分にしたがうと、人文科学と社会科学が同じグループに入るので、社会科学の「サイエンス」性がやや見えにくくな る。かつての私がまさにこれだった。私は理系で、かつ人文科学には興味があったのだが、社会科学にまるで興味がなかったので、社会科学が「サイエンス」だ という見方に欠けていた。さらに理系の場合、スッキリ決着がつかない社会科学に対しては「こんなのは科学とは言えないよ」という気持ちがあり、「サイエンス」としては一段下に見がちなところもあると思う
「理系」「文系」の区分は日本だけ 「人文科学」「社会科学」「自然科学」の違い - Zopeジャンキー日記
自分の理解では。多くは「モノサシの精度」が違うんだと思う。「自然科学のモノサシ」が細密なノギスだとすっと、「社会科学のモノサシ」は100メートルトラック描くのに使う巻き尺、みたいな。「科学的態度」を全く欠いた言動は感心しないが、星を見るのに電子顕微鏡を持ち出すのも似たようなものだ(それはそれでと言う、漢のマロンは置いておく)。ただし。自分の見聞の範囲では、文系であれ理系であれ、このへん自力で突破しちゃってる人は少なく無い。
そうでなければ生き残れないのだらふか! なんちて。 |
それでも重篤な症例を見ないではない↓
- 091221 読売新聞朝刊 7面 「世の中変える」戦略を 理系内閣に望む
かつて大学の教授が言っていた。「文科系の人間は世の中を動かすことはできるが、変える事はできない。世の中を変えていくのは理系の人間だ」
世界を変えるのは技術革新であり、それを担うのは理系だという理系教授の自負を込めた言葉だ。
産業革命に始まり、自動車や飛行機、コンピュータや携帯電話などの電子機器、さらには医療の世界まで、研究者によるさまざまな発明が人間の生活を変えてきた。特に、もの作りで経済大国になった日本では、理系が大切にされてしかるべきだろう。
しかし、現政権は理系に冷たいようだ。予算の無駄を洗い出すという「事業仕分け」では、「次世代スーパーコンピューター開発」をはじめとする科学技術予算が標的とされた。仕分け人からは「世界で1位を目指す必要があるのか」との発言も出て、研究者らは反発した。
もともと、日本の科学技術予算はここ数年横ばいで、欧米やアジア各国と比べて伸びが低いという。さらに縮減して「技術立国」の旗を降ろすのだろうか。今後の日本の成長戦略を描く姿勢はそこにはない。
実は、鳩山内閣は首相を始め主要ポストに理系出身者が並ぶ「理系内閣」だ。「世の中を変えて欲しい」との国民の期待を受けた新政権だが、政策は迷走続き。世の中を正しく動かすことすら難しくなっているように見える。
- そもそも「イノベーション=技術革新」というのは、「もはや戦後ではない」と書いた官僚が、国民の目を技術開発に向けるべく編み出した「意図的な誤訳」だ。もはや戦後復興に頼る経済成長はできない、これからは技術開発が勝利の鍵だ!てなもんだ*1。
- しかしこの「意図的な誤訳」を基底にものを考えると、副作用が出る。
- だいたい「文系の人間に世の中を変えられない」という事はあり得ないし、「理系の人間だから世の中を動かせなくたっていーんだ」という事も、、別にいいけど国家有為の人材wでわない。
こゆのは「失敗教育(フェイルアー・エデュケーション)」とゆうカンジでコーヒーが苦ひ。どんなトラウマがあるにせよ、未熟な脳みそに手前の差別意識を刷り込むのは「自負」とは言わんダロふつー。殊更にツイタテを立てて引きこもるのはイクナイ。
ユマニタスとそれ以外
この「社会科学の軽視」については、〜かつての私のような「個人の無知」だけに帰せられる問題で はなく、日本の教育や社会に根ざした「構造」問題のようだ。
「理系」「文系」の区分は日本だけ 「人文科学」「社会科学」「自然科学」の違い - Zopeジャンキー日記
これは「文系」の内部でも妙なタコツボ意識を生んでいる。自分の見聞の範囲では。
「社会学」 | と | 「社会科学」 |
「法学」 | と | 「政治学」 |
の断絶もなかなか深い。
前者は恐らく「ユマニタス」の色が濃い。後者は、統計学や市場調査、投票行動分析などを応用して、前者に新たな普遍性や客観性、あるいは事前予測可能性を持ち込もうとする動きだ。…などとむずかしい漢字を並べてるとココロまで不安定になってくるw。
端的に後者が目指した理想を描いたのは、アイザック・アシモフのSF「ファウンデーション・シリーズ(1951〜)」だろう。一言でいうと未来の歴史は数学的に予測可能だ!。みたいな。*2
1951という年号は「政治学」の発生とほぼ近接している。本場は米国。「政治学」の発生は、20世紀前半のパンチカード、機械式計算機、ひいてはその後のコンピュータの発展、科学的経営手法の研究、市場調査の洗練、大量生産・大量消費社会の台頭*3…などと密接な関わりがある。
とうぜん此れ(SFでなくガクモンのほう)は、人間の本質ってなぁソンなモンぢゃないやい!とゆう反動を受ける。おもに「ユマニタス方面」からだ。さらにすすんでソーシャル・エンジニアリング(社会工学)とかポリティカル・サイエンス(政治科学)なんてのもあるが、「ニンゲンをなんだと思ってるんだ回路」を起動してしまふようだ。実際字面ダケ見ると怖ぇしw。
ぢゃあ「人文科学」ていったいなんなのさ?
という事で「補助線」がでてくる。
本質主義も構造主義も知らない言葉なので妄想になってしまうが…
- 本質主義
- 自然科学の根底は「自然の理解」にある。わからん事は自然に求めれば良い。
- 人文科学の根底は「人間の理解」にある。わからん事は人間に求めれば良い。
- 構造主義
- 社会科学の根底は「社会の理解」にある。わからん事は社会の構造に求めれば良い。
というほどの事だろうか。
いずれにせよ「人間の理解」の中心に位置するのは「哲学」という事になるのだろう。また、この図の一枚下のレイヤーにあるべき基礎教育は、必要な基礎知識を習得させるだけでなく、学際的な分野がぼこぼこ出て来ても、種々のメダパニに惑わされない「軸」を錬成するものが必要なのだろう。つか教養?リベラルアーツってなんだかよく解らないけども。
その他。
そもそもScienceを「科学」と訳し、殊更に理系的な匂いを付けて使う事じたいが間違いの素なのでわないか。とゆう気もしないでわない。
サイエンスの語源は、ラテン語のスキエント(Scient=知る)にあるとの事である。サイエンスを科学と訳したのは明治の思想家・西周で、サイエンスの分野が様々の分科に分れていることから「科」を採用したということであるが、むしろ知のための学、すなわち「知学」という言葉が適切であろう。
ものつくり敗戦—「匠の呪縛」が日本を衰退させる (日経プレミアシリーズ)
手許ではこれに依らず、明治期に成立した「外来語の訳語」はすべて要注意扱いにしてる〜例えば「情報*4」とか「自由」とか〜でもまぁ、それは考え過ぎかもしんない。イロイロと生きにくいしw。