後家さんと千歯扱き

ちなみに、足踏み脱穀機の前は、「千歯こき」と言って、櫛の大型のもので籾をこそげ取っていたのですが、これは別名「後家殺し」と呼ばれていたそうです。千歯こきの前は、割り箸で挟むようにして1本づつ稲穂から籾をこそげ取っていたのですが、その仕事は村の中では、互助の精神からか後家さんに優先的に与えられた仕事だったらしいのです。それが、「千歯こき」という技術革新があったせいで、後家さんには仕事がなくなったそうです。

林さんちはお米、玄米、おもち、Web通販などを手がけておられるようだが、あたしゃ後家さんのその後が気になる。

  • 千歯扱き(せんばこき)もしくは千歯(せんば)は、元禄期に和泉国の大工村で考案された日本の古式の脱穀用農具。
  • この農具の開発までは、手に持った扱箸(こきばし)という大型の箸状の器具で穂を挟んで籾をしごき取っていたため、束のまま一気に脱穀できる千歯扱きの発明によって、脱穀の能率は飛躍的に向上した。しかし、非効率な扱箸による脱穀は村落社会においては未亡人の貴重な収入源となっていたため、千歯扱きはこの労働の機会を奪うものとなり、後家倒し(ごけたおし)の異名もある。

との事。ころされたり倒されたり後家さんも大変だが、しかし、そのご後家さんが絶滅したという話も見ない。果たして彼女達はどこへッ!(熟女属性?)。

高度成長・開拓篇

『大江戸史話 大石慎三郎 中公文庫 1992』によると、戦国中時期〜江戸時代前半は、史上稀に見る米の高度成長期なのだそうだ。大石さんの推計では、日本の耕地面積は、室町中期→江戸中期で三倍強、関ヶ原当時→江戸中期でも1.8倍ほどに伸びている。理由は治水・開拓・河川改修。戦国大名江戸幕府も、殖地興農・富米強兵に腐心したのだ。兵農分離が進もうと増収にそっぽ向く農民などない。

 ■日本の耕地面積の伸び(室町中期を100とした場合の比率)
1450頃:室町中期 100
1600頃:関が原 172.8
1720頃:江戸中期 313.9

この勢いで収穫が増えてりゃコキバシでは間に合わない。だからって後家さんを増産する奴は居ない。そりゃ千歯扱きも発明される。確かにそれで脱穀仕事は減るだろう。駄菓子菓子。新田は人手不足だ。健康で快活な方募集中・出自経験年齢不問・前科者でも豊臣方でも無問題。そうなりゃ当然嫁不足だ。バツイチだろうが年増だろうが健康で快活な方以下同文。チャンスにそっぽ向く後家さんなどない。婚活だ。

世はいまだ下克上の風を遺す。ならば後家さん以前に肉食系。時代は人間50年。ならば後家さんつってもR25。てなトコぢゃまいか。ただし、実年齢でなく感覚(期待余命比率?)でいうと、「人間50年時代のR25≒人間80年時代のR40」とも考えられる……ちとリアルが過ぎる気もするが、ここで心を揺らすのはまだ早い。そんな時代にも草食系の後家さんはいた筈なのだ。果たして彼女達はどこへッ!(草食系熟女属性?)。

低成長期・精農篇

1720頃:江戸中期 313.9
1874:明治初頭 332.4

その後、大規模な新田開発は止まった。概ね1650頃の事であるらしい。江戸幕府はその初期にいくつもの大規模河川改修を手がけたが(おそらくは経済成長による民心の馴致含み)、この辺りで当時の土木技術の限界に達したようだ。

もはや新田開拓の時代ではない。これからの時代、成長は生産性の向上によってもたらされるであろ〜。と言ったかどうかは知らないが、1670頃より、幕府はそれ以上の開発や、田んぼの分割相続を制限した。それ以上に山を崩せば崖が崩れ、それ以上に水を引けば、流域のどこかにツケがゆく*1。分割相続で零細農家が増えると、租税徴収が不安定になってゆく。

ここで「農書の時代」が始まる。「単位面積あたりの収量向上」だ。1680~1710ころの30年間。初期の農書は自給農を前提にした稲作中心の書だったが、後期には商品作物の各論に全力を投入したちょ〜専門的なハイテクの鎌足に進化していった。

■「農書の時代」以降に発達した主な商品作物
木綿 またたくまに庶民の着物が麻から移行!
菜種油と蝋 灯火を用いた明るい暮らし!
タバコ 幕府の禁制なんのその
地酒造りの拡大
生糸 元禄期に国産化成功。明治花形輸出産業の始祖鳥

ふたたび『大江戸史話 大石慎三郎 中公文庫 1992』によると、寛文年間(1670近辺)を画期にはじまる精農主義的農法は、これ以後、労働コストや効率概念を欠落させながら、単位面積からの収量至上主義につっぱしり、S35(1960)までの約300年もの長期に渡って、日本農政の基調となったという。

下線部がちと気になるが、米食民の人口増加率はダンチだとか、農業経済で耕地拡大止まったら格差社会がキツくなるとか、長くなるので置いておく。とりあえず。草食系の後家さん雇用は、それらの作業に吸収されていったと思われる。

余談:その後の農業

2005年6月頃に山下一仁さんが書かれた「貿易交渉と日本の農政」に明治から1960年までの間、日本農業不変の3大数字と呼ばれたと言う数字が載っている。それによると1960以前の日本の農地面積は600万ヘクタールで、その後470万ヘクタールにまで減ったと言う。

『大江戸史話 大石慎三郎 中公文庫 1992』には面積も並記してあるのだけど、単位が「町歩」というものだ。1874租税寮が編纂した第一回統計表による日本の耕地面積は3050千町歩。1ha=0.99町歩*2で換算すると302万ヘクタール。ナニコレ。半分ぢゃん。

コノ本の表は930年頃の『和名抄』とか、そういうとこから数字を拾って創られたものだが、、、よもや昔は田んぼしかカウントしてなかったのぢゃあるまひな?。

と検索したら『農林水産省/面積調査』。ここの長期累年統計表一覧/耕地及び作付面積統計〔Excel:e-Stat〕ちゅリンクを踏むと、ずらずらリストが出る。リスト冒頭の「耕地及び作付面積統計 1 本地けい畔別耕地面積累年統計 」というエクセルの表を見ると、昭.31(1956)の「田の合計」は、3320000ha。332万だ。

そこで、930頃の『和名抄』〜1874(明治07)の『第一回統計表』まで、田んぼしかカウントしてねぇと仮定して、合体してみた。

年代 たんぼ面積(ha) 室町中期比 出典
930頃(平安中期) 853380 91% 和名抄(大江戸史話 大石慎三郎
1450頃(室町中期) 936540 100% 拾介抄(〃)
1600頃(江戸初頭) 1618650 173% 慶長三年大名帳(〃)
1720頃(江戸中期) 2940300 314% 町歩下組帳(〃)
1874(明治07) 3019500 322% 租税寮 第一回統計表(〃)
1960(昭和35) 3381000 361% 農水省 耕地及び作付面積統計
2006(平成18) 2543000 272%
  • 大石慎三郎さんは、関ヶ原(1600年)を挟む前後100年間を、日本史上稀に見る耕地拡大期として居られる。
  • 山下一仁さんは、1960以降を、農家栄えて農業滅ぶと表現しておられる。

*1:山裾から平野部全体に広がる日本の水田風景というのは、この時期に出現したものだ。あれは、緻密な計算の下に大型河川をねじ曲げ、用水に分散して田を拓き、洪水を制する技術が創ったものだ。それ以前の日本人は、山裾の耕地から眼下に広がる泥沼地を見て、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)言ってたんぢゃないかと思う。

*2:兵庫県行政書士会淡路支部さんの面積換算表など