誤爆上等の過剰規制は不必要な逮捕者を産む。

英国で、児童ポルノ所持の偽情報を警察に流され、自分のノートパソコンに児童ポルノ画像を仕込まれた人が逮捕され、一年後に真相が明らかになったものの、その間近隣住民の非難の声におびえ、友人や家族、同僚からも避けられる暮らしをする事になった。という話。
英国は「罪かどうかは裁判で決まる国」で、逮捕=悪即斬(社会的に)ではないと思っていたのだけれど、児童ポルノは例外らしい。まぁそりゃそうダロなとは思うけど。
なお、上記記事では、おおもとの児童ポルノ生産者の捕縛・被害児童の保護については触れられていない。

後藤啓二さん(ECPAT/ストップ子ども買春の会顧問)の冤罪に関する発言

そういえば冤罪リスクについて、後藤啓二さんがなにか言っていたなと思い出した。

  • 2009.01.30 第28期東京都青少年問題協議会議事録 第1回専門部会 議事録(PDF配布ページ)より。

私は民主党の部会に呼ばれて説明をし、単純所持禁止の必要性について訴えたこともあるんですけれども、そのときに彼らが言ったのは、それは必要だと思うんだけれども、冤罪の危険があるじゃないかと言うんですね。

冤罪の危険って何ですかと聞くと、誰かが自分を陥れようとした場合に、児童ポルノを庭に投げ込まれると、それを警察に通報する。そうすると、警察がそれを真に受けてすぐ捜索や逮捕するだろうと、冤罪が起こってしまうんだと、こう言うんですね。

そんなことを起こるわけないじゃないですかと言っても、いやいやいやという話なんですね。こんな理由で反対するなんてほんと信じられないんですけれども

ただ冤罪というのは、もちろん論理的にゼロになる話じゃないとは思います

冤罪防止の問題というのは、この児童ポルノだけの問題じゃなくて、あらゆる犯罪であるわけです。もっと凶悪な性犯罪でありますとか、あるいは殺人罪でも冤罪の問題というのは起こり得るといいますか、起こっておるわけでありまして、それを抽象的に冤罪の危険があるから禁止すべきでないということは本末転倒というか、論理になっていないわけであります。すべての犯罪を認めることになってしまいます。

それは警察捜査全体をどうよくしていくかという問題でありまして、児童ポルノを楽しむことを放置することで解決する問題ではないということを私どもは強く申し上げているんですけれども、なかなかご理解が得られない、こういう状況です。

残念ながら、こんな議論を今もしているのは日本だけだろうというふうに考えておりまして、もちろん、民主党の中でも賛成の方は多数おられまして、そういう方を通じて何とか法改正を実現してもらえるように今もずうっとお願いを続けておると、こういう状況です。

頭書記事によれば、モロにその冤罪に見えるのだが、後藤さんについては、ほとんど不快感が湧いてこない。この議事録は、半分弱が後藤さんのプレゼンで占められているのだけど、どうも此方は「実在児童の人権を蹂躙する凄惨な犯罪」を追う現場で、法の未整備から歯噛みして地団駄を踏んだ経験をお持ちなのではないかという印象〜まぁ勝手な脳内設定だが〜を持ったので、なんか脳内補正がかかる。

児童保護番長の台詞はちゃんと読まねば、みたいな。

その上で、知り合いの中に被害児童が実在しない自分としては、一歩引いて考えないと、地面から足が離れちゃうぞ。みたいな。

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■1)正義のミカタ

被害児童は保護されべきものだ。実在児童の人権を侵害する犯罪*1は、捕縛されべきものだ。その事に集中する心情は理解できる。

■2)正義のハンタイは別の正義

だがそれが全てではない。怒りのあまり異論に脳を沸騰させては、誤爆上等の過剰規制ができる。誤爆上等の過剰規制は不必要な犯罪者を産む。

『法令滋彰 盗賊多有(老子 第五十七章)』という奴だ。ちまちま法律増やしたって泥棒増えるダケやで。みたいな。だからって法治主義全否定するわけにもいかんが、「妥当なところを探る手間」を惜しむと、クルマザキに遭う。

工場は職場と付加価値を産むが、だから公害なんて気にしませんでは結局のところソロバンが合わない。それは職場を頼りにしている地元の人や、製品を心待ちにしている人びとにとっても残念な事だ。

児童保護の為の法律だから、公害なんてありえない。なんて事はありえない。

■3)鹿鳴館立法

またこの規制が無いのは日本だけと言っても、「立法前にも議論は尽くすが、どのみち完全な法律などないのだから、実情に合わせてぽんぽん変えてゆく政治文化(公務員は執行マシーン)」と、「議決前に(水面下で。主に官僚が)ネチネチと問題点を洗い出し、その過程で大雑把な合意を得たら、条文は最大公約数的なものに止め、後は行政指導に丸投げして滅多に変えない政治文化」では、立法のありようが異なる。

この「政治文化の違い」は、表現規制のありようにも反映される。だけでなく、その土に咲く華も違ってくる。

- 規制を産むシカケ 適合する文化


論理駆動のディベートサイクル(法規制) カウンター/ポップカルチャーが育つ
既成の価値観に「反逆」し、「芸術の楯」で身を守る。


空気駆動の自主規制サイクル おたくカルチャーが育つ
既成の価値観スレスレのところで、泥団子投げる。叱られるとしばらくおとなしくなるが基本的にはスーダラ節
『わかっちゃいるけどやめられない』

英米の土で「まんが」や「アニメ」が育つ事はない(きっぱり)。あの土では「アメコミ」や「カートゥーン」のように、「法的に表現された世間様の許容範囲」を超えられない。「カタにはまった表現」しか育たない。それを息苦しいと思う人、もっと同時代性のある表現をしたい人は、頑張ってロビー活動するよりゃNYにでも出て「現代アートの楯」をそうびする方が手っ取り早いだろう。

逆に言えば日本で"現代アート"が成立する余地は、外国で得た評価(ハッキリ言えば値札)を逆輸入する「鹿鳴館戦法」しか、ない(キッパリ)。受け手が他の評価軸を持っていないからだ。その市場〜創造性需要〜は、おたくカルチャーと多彩な評価軸を持つ受け手が、埋め尽くしている。オレはこれでいい。何かに比べて高いとも低いとも思わない。単にそういう「植生」というだけの事だ。

「空気駆動の自主規制サイクル」は、「世間様の許容範囲」を踏み越えようとする創り手に「いまなら大丈夫、このくらいなら大丈夫、この内容ならきっとみんな認めてくれる」という覚悟(末路哀れは覚悟の前)しか要求しない。数が質を産む。悪貨は良貨を駆逐しない。客の目が肥えるだけだ。悪貨は肥えた客の目で駆逐される。これはNYの現代アートシーンでも同じ事だろう。

スイスイスーダララっと「実在児童の人権を蹂躙」するような手合いは断じて捕縛せねばならないし、「諸外国のめいわく」を無視するわけにもいかないが、英米式の厳格規制をまんがやアニメやゲームにまで持ち込むのは、伝統的には、"おとなげない"ように思う。

■4)じじとう

10Q3現在、前項下線部のシカケは、精度が落ちている。テンプレが「官庁ー業界団体ー大企業/大組織ー中小・下請け」という「事実上の政党(職域ギルド型)」だからだ。

このシカケは、消費者・生活者・失業者・ビジネスモデルのイノベイターフリーライターなどの意向を汲む事には長けてない。非・職域的な民意や、既存職域と対立する民意の収集・整理・分析には使えない。「天下り」という情報収集網の根を張ってない分野では、無知無能といっていい(逆に言えば張っている分野では高精度だが、出来上がるのは「公害垂れ流し工場」という局面が増えつつある)。

過渡期ではある。従って、「既存職域ギルドによるイノベイター/消費者潰し」の他に、「非・職域的な民意の暴走」という観点も必要かもしれない。ただし最も怖いのは「官部の暴走」だろう。

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それでも前述の通り、後藤啓二さんについては、ほとんど不快感が湧いてこない。表現の自由についてはあんまし賛同できないのだけれど、やはりなんつうか「児童保護番長」という印象がある。

一方で、保坂展人さんは、中学生の時に全共闘かなにか名乗って活動したら、ソレ内申書に書かれて受けた高校ぜんぶ落ちたのが原点という経歴の持ち主だ。自分としては政治経済面で賛同できない主張が多い方なのだけど、筋金入りの「表現の自由番長」だと思っている。

あーあ。二人とも参議院に通ればよかったのに。「後藤-保坂戦・白熱の番長対決!」が見たかったなぁ。

*1:この人権侵害には覚悟完了未成年から自己実現の自由を奪う事も含まれる筈だが、これは個々人の発達程度をダレがどう判断するんだってのが厄介なので、ひとまず脇に置く。