ホメオパシーとか雑感

一行で言うと、ゴキブリ退治はまず掃除。氷殺ジェットは最後の武器だ。みたいな。

1)潜在的な近代医療不信

  1. 周産期医療・救急医療の崩壊(ないしは報道で形成されたそういうイメージ)
  2. 不足する保育所(同上)
  3. 小児科医療の不十分(同上)
    • J-CASTによるNHKクローズアップ現代(2010年7月28日放送)要約によると、日本は新生児の死亡率は極めて低い一方、1〜4歳児の死亡率では、先進国の平均を大幅に上回る状態が過去20年間続いていると、最近の調査で分かった。という。
    • ※こういうのは数値として出る頃には、現場の方(小児科医の皆さんと親御さんの皆さん)の間に実感が広まっているもの。だと思う。
  4. その一方で、禁煙外来の保険化・メタボ検診の推進など、上記に比べ喫緊度が低く思えるジャンルへの大々的な公費の導入(または、そうゆう報道)。

これらの状況は、国内の医療政策・医業従事者、ひいては近代医療や「医学のチカラ」への不安・不信すら培養し得る。

1〜3の対処が不十分なうちに4番が進んでゆく状況では、「事の順番が違う」「なんだか信用ならない」などの「感情」が世間に広まってゆく。医学界や科学界のみなさんには、まず1〜3の「お掃除」を期待したい(税金や社会保障費は一円も貰ってませんて人はともかく)。

ありていにいえば、ホメオなんたらの問題は、科学対ニセ科学の問題ではなく、かなり広い意味でのMKTG能力、あるいは営業努力ーーわたしたちのほうが皆様のお役にたちます!ーーと、人びとに信じ込ませる洗脳戦に見える。だってオレみたことねーもんビタミンK2なんて。あそこまで行くとレメディもビタミンも「イワシのアタマ」「莫迦にはみえないふく」に見える(もしも競争のポイントがここである場合、独立不覊のオーラというのが結構効く)。

そりゃ勿論ビタミンK2に手を合わせるのは場にふさわしくないというか、宗派が違う気がするが、自分の感覚では、人の生死との関わりが濃い局面ほど、宗教は医学と五分五分の信者獲得競争を展開し得るものだと思う。どちらも「生病老死」を扱うからだ。その意味では、医学は「最も宗教に隣接した科学」なのだと思う。はたして1〜3が不十分なうちに4番が進んでゆくのは、「仁術」だろうか?

2)日本型家族における「潜在的脆弱性

  1. 仕事を理由に育児は母ちゃん任せきり(でも決定権はオレ的姿勢)なお父さん。
  2. それに不満はあるが、
    1. 決定的な対抗武器がない and/or
    2. 不満を言うより「ちゃんとしなきゃ」と考えるタイプの「ちゃんとした」お母さん。

この組み合わせは、育児・保育・小児医療という点では、「潜在的に脆弱」であり得る。現場認識の温い者が、目標設定や方針決定において、納得度の高い決断を下せる事はまずない。決定に対する納得度が低い場合、執行者の能力は著しく減殺する。

しかしながら、例えば1番的なお父さんに批判がましいタグを貼っても即効性が薄い割に反発がキツイし、「ちゃんとしたお母さん」は、「ちゃんとした躾」を受けたから、「ちゃんとしたお母さん」をやっているわけで、1も2も本人なりに「ちゃんと」しているのだ。そこに外から「破綻した大企業みてぇ」とか口を挟むのはナニだろう。ナニをどう歯に衣きせようが、啓蒙的姿勢(うえからめせん)で内面に容喙、というのは副作用(好転反応)が大きい。オトナだって「オトモダチ」や「共感できる人」「解ってくれる人」の方が好きなのだ。

このスキマが侵入口になる。なんらかの新興宗教、カルト、代替医療などが目覚ましい普及を遂げる場合、たいがいは推進者が、この「感情同調力」「共感提示力」そして「情熱を傾けるに足るビジョンのプレゼン力」に優れている(例:スティーブ・ジョブス猊下)。科学や論理的整合性など大した問題ではない。人はみなココロのスキマを埋めてほしーのだ(そしてココロのスキマは誰にでもある)。

いずれにせよ、優れて内面的な話なので、内面的な対策を取れば取るほど洗脳戦(aka.信者同士の罵り合い)の色彩を帯びる。ここは外形的に「実労働時間の短縮(生産性の向上)」「時間外労働賃金の上昇」「有給消化率の向上」「男性の家事進出支援」「女性の社会進出支援」などで地道に、物理的に「家族で話し合う条件」を整えてゆくのが王道だと思う。

余談:外郎(ういろう)は万病速効ある事神の如し。証拠に舌がよく回る。

「どんな病気にも効く」てんなら、コレや蝦蟇の油でもいいんぢゃないのと思ってみたり。

 拙者親方と申すは、お立合の中に、御存じのお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町をお過ぎなされて、青物町を登りへおいでなさるれば、欄干橋虎屋藤衛門只今は剃髪致して、円斉となのりまする。元朝より大晦日まで、お手に入れまするこの薬は、昔ちんの国の唐人、外郎という人、わが朝へ来り、帝へ参内の折から、この薬を深く籠め置き、用ゆる時は一粒ずつ、冠のすき間より取り出だす。依ってその名を帝より、とうちんこうと賜わる。即ち文字には「頂き、透く、香い」とかいて「とうちんこう」と申す。只今はこの薬、殊の外世上に弘まり、方々に似看板を出し、イヤ、小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名をもって「ういろう」と記せしは親方円斉ばかり。もしやお立合の中に、熱海か塔の沢へ湯治にお出でなさるるか、又は伊勢御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。お登りならば右の方、お下りなれば左側、八方が八つ棟、表が三つ棟玉堂造り、破風には菊に桐のとうの御紋を御赦免あって、系図正しき薬でござる。

 イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、ご存知ない方には、正身の胡椒の丸呑、白河夜船、さらば一粒食べかけて、その気見合いをお目にかけましょう。先ずこの薬をかように一粒舌の上にのせまして、腹内へ納めますると、イヤどうも云えぬは、胃、心、肺、肝がすこやかになりて、薫風咽より来り、口中微涼を生ずるが如し。魚鳥、茸、麺類の食合わせ、其の他、万病速効ある事神の如し。さて、この薬、第一の奇妙には、舌のまわることが、銭ゴマがはだしで逃げる。ひょっと舌がまわり出すと、矢も盾もたまらぬじゃ。

 そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわってきたわ、まわってくるわ。アワヤ咽、さたらな舌に、カ牙サ歯音、ハマの二つは唇の軽重、開合さわやかに、あかさたなはまやらわ、おこそとのほもよろを、一つへぎへぎに、へぎほしはじかみ、盆まめ、盆米、盆ごぼう、摘蓼、摘豆、つみ山椒、書写山の社僧正、粉米のなまがみ、粉米のなまがみ、こん粉米の小生がみ、繻子ひじゅす、繻子、繻珍、親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親かへい子かへい、子かへい親かへい、ふる栗の木の古切口。雨合羽か、番合羽か、貴様のきゃはんも皮脚絆、我等がきゃはんも皮脚絆、しっかわ袴のしっぽころびを、三針はりながにちょと縫うて、ぬうてちょとぶんだせ、かわら撫子、野石竹。のら如来、のら如来、三のら如来に六のら如来。一寸先のお小仏におけつまずきゃるな、細溝にどじょにょろり。京のなま鱈奈良なま学鰹、ちょと四、五貫目、お茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ茶立ちょ、青竹茶筅でお茶ちゃっと立ちゃ。

 来るわ来るわ何が来る、高野の山のおこけら小僧。狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。武具、馬具、ぶぐ、ばぐ、三ぶぐばぐ、合わせて武具、馬具、六ぶぐばぐ。菊、栗、きく、くり、三菊栗、合わせて菊、栗、六菊栗。麦、ごみ、むぎ、ごみ、三むぎごみ、合わせてむぎ、ごみ、六むぎごみ。あの長押の長薙刀は、誰が長薙刀ぞ。向こうの胡麻がらは、荏のごまがらか、真ごまがらか、あれこそほんの真胡麻殻。がらぴい、がらぴい風車、おきゃがれこぼし、おきゃがれ小法師、ゆんべもこぼして又こぼした。たあぷぽぽ、たあぷぽぽ、ちりから、ちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一丁だこ、落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食われぬものは、五徳、鉄きゅう、かな熊童子に、石熊、石持、虎熊、虎きす、中にも、東寺の羅生門には、茨木童子がうで栗五合つかんでおむしゃる、かの頼光のひざもと去らず。

 鮒、きんかん、椎茸、定めて後段な、そば切り、そうめん、うどんか、愚鈍な小新発地。小棚の、小下の、小桶に、こ味噌が、こ有るぞ、小杓子、こ持って、こすくって、こよこせ、おっと合点だ、心得たんぼの川崎、神奈川、程ヶ谷、戸塚は、走って行けば、やいとを摺りむく、三里ばかりか、藤沢、平塚、大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原とうちん香、隠れござらぬ貴賤群衆の花のお江戸の花ういろう、あれあの花を見てお心をおやわらぎやという。産子、這子に至るまで、この外郎の御評判、御存じないとは申されまいまいつぶり、角出せ、棒出せ、ぼうぼうまゆに、臼、杵、すりばち、ばちばちぐゎらぐゎらぐゎらと、羽目を弛して今日お出でのいずれも様に、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せい引っぱり、東方世界の薬の元〆、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って、ういろうは、いらっしゃりませぬか。