明るいイデオン

それはアニメで集まって騒ぐ楽しさを発見したひとたちが居て、それを洗練させてった人々がいたから。誰もこうなるとは思ってなかったろうし、なんだこれわと驚く事もあるけれど、楽しんでる時に後先考えるやつなんていないし、文句言う大人なんて誰も気にしちゃいない。ええやないの。それで。

それはリアルタイマーにしかできない事でもある。最初に始めたのがファンであれ、銭の為であれ、楽しくなければ誰も踊らん。洗練させてったのが銭の亡者であれ、それにファンが踊らされたダケであれ、楽しくなければ続きはしない。瓢箪からコマの一つも出てくりゃ、楽しみ方が広がり、儲けのクチが増え、制作資金のスポンサーも広がってゆく。それは集まって騒ぐ人たちがいなきゃできない事だし、オールドタイマーやハードコアなファンの利益にもなって来た事なんぢゃないかなぁ。

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などと生黒い事を考えるうち、ふいに「イデ音頭」とゆう単語を思い出した。なんだっけソレ。お、あったあった。

「明るいイデオン」というのは、「映画の宣伝にファンのあなたも参加してみないか?」ちゅイベントみたいなものなのだけど、実体は、アニオタがMADアニメやCMソングらしきもの(これがイデ音頭)を持ち寄って文化祭をやりました!というに近い。といっても自分は本でしかしらないのだけど、「玖足手帖」さんでは、当時のふいんきを伝える資料引用や、YouTubeへのリンクをさっと並べて下さっており、ありがたいありがたい。、、、そして一言でいうと、これはひどいw。「総統閣下シリーズ」をネタ元の宣伝に使ったようなものだw。

「玖足手帖」さんも『おまえら、作品の事は分かってやっているのか?』『っていうか、あんたたち、なんでもいいんでしょう!』などなど、お怒りのようです。実際イデオンて「明るい」もへったくれもない。めちゃめちゃ救いのない話だし、そゆ声は、同時代にも出てたかもなぁとは思うんだけど、、、当時は今と違って、プロモーションと2次創作の棲み分け(でも相乗効果は出す技法)がぐちょぐちょだった。ネットも無かった。映像はビデオテープだし、音楽はカセットだった。WinやMacどころか、ファミコンすらまだぢゃないかな。それなのに「彼ら」は「持ち寄るダケのブツと地力と気合い」を持っていた。「その地力、宣伝に貸してくんない?一緒に盛り上げてよ」とゆうのは、相応にクリエイティブな事だと思う。

そして、今も昔もリアルタイマーって奴は、話がどうのテーマがなんだより、もっとだいじな事に突き動かされてると思うんだ。

理屈を言うのが得意な人や、アタマのいい人は、言葉で語ればいいと思う。それはそれで楽しいし。それをやらねば「語り継がれる」事もない。でもそこで解釈が違ったり、話が難しくなりすぎたら、アレ面白いよねー!って言える相手が減ってさみしいぢゃないの。絵で語る方が得意なひとや、音楽で喋る方が得意なひとだって居る。そもそもアニメは絵と音キャラと、動きと話と世界観だ。画面に出ない監督さんだの声優さんだのまで広げりゃとっつきどころはいっぱいある。オレはドレでも語れないけど、それでも、面白かったらまず、アレ面白いよねー!って盛り上がりたい。そのキモチが真っ先に来ちゃうと思うんだよね。

おまえアレ見たか?見ろよすげぇぞ?なに元ネタしらねーの?イヤもー見ろって!いーから見ろって!!

「彼ら」はただ集まって騒ぎたいだけなんかぢゃない。なんでもいいワケがない。おもしれーから騒ぐんだ。純真に好きと思うキモチがそうさせるんだ。それを「イデの発動」と呼んだのだよw。「明るいイデオン」は。

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今では「騒ぐファン」と「サクヒンのプロモーション」は、相互の棲み分けが進んで、システマチックにもなってる。形や線引きは今も変わり続けてるけど、でもお互いにお互いを必要としていて、付かず離れず一蓮托生なのは同じだと思う。だってさ。そこがネットの上であれ、どこかリアルな場所であれ、集まって騒ぐ人たちがいなくなったら、そこがアニメのおわりぢゃなイカ