日常語とズレた学問語は「政治的にただしくない」


自衛隊暴力装置ではない。タコ焼きがタコ焼き器ではないのと同じ。: 極東ブログ
自衛隊ではなく国家が暴力装置だから国民は安心して暮らせる: 極東ブログ

要するに。「自衛隊はタコヤキである。国家はタコヤキ器である。タコヤキ器は、扱いを間違うとヤケドする。」って事かと思った。でも自衛隊をタコヤキ呼ばわりは無礼だよね。みたいな。

【1】上記まとめ;

学問の世界では。

  1. 自衛隊は「暴力」 ← タコ焼き
  2. 国家じたいが「暴力装置」← タコ焼き器。タコ焼きを生み出すシカケ
  3. 国家が「国民主権」で、軍が「シビリアン・コントロール」なら、「国民」が「間違った暴力の行使」にさらされる確率は下がる。
    • ↑たぶん。「国民」がタコ焼き器を操るなら、タコ焼きを喰いたい時に、イカ焼きやタコの無いたこ焼きに閉口する確率が下がる。万一「謎の食べ物」ができたり、ヤケドしたりしても、それは自己責任。みたいな。
  4. 学問語で言えば、「自衛隊暴力装置」というのは間違っている。「自衛隊は暴力」が正しい。「暴力装置」とは、「国家そのもの」の事である。
  5. でもソレ、学問の外の世界で使う必要ないよね。「暴力」とか。
【2】自分としては、次のように感じています;

国家が管理する「ちから」は軍事力だけではない。国家は、警察権、裁判権、徴税権、立法権、行政権などなど、さまざまな「ちから」を持っている。これらもまた「私の意思に反して、私の自由を制限し得るちから」である。しかしながら、「私たち」に「投票権」があるならば、「そうそう間違った事にはならないんぢゃないの?」くらいには、安心にくらしてゆけるだろう。面倒が起きた時に参照できるレシピ(憲法)があれば、なお良い。

これが、デモクラシー(民主制)であり、立憲制。と理解しています。手許では。とくに学問の領域に立ち入る事がないなら、このくらいで充分なんぢゃないかと思います。

【3】日常語とズレた学問語は「政治的にただしくない」
  • 極東ブログさんによると、学問語の「暴力」は、ドイツ語「ゲバルト」の訳。
  • ドイツ語の「ゲバルト」と、日常語の「暴力」とは、ニュアンス的にはちと違う。
  • 日本の学者さんたちは、適当な日本語がなかったので「暴力」とし、その用語を引き継いで来た。
  • これは学問語が通じるTPO(時・場所・機会)では問題ないが、日常語で語るべきTPOでは誤解を産む。
  • 「暴力」であれ、「暴力装置」であれ、学問的にただしかろうが、間違っていようが、自衛隊や海保や警察の人は、不快だろう。ひらたく言うと「政治的にただしくない」
元・国立暴力団員から一言! - 軍事評論家=佐藤守のブログ日記

こうした「政治的にただしくない用語」の蔓延は、根本的には、「ゲバルト」に相当する造語を編み出す事を怠って来た、学問サイドの責任があると思います。原語のみに切り替えるのが良いのか、あるいは、新たに肚に落ちる用語を編み出し言い換えるのが良いかはわかりませんが、かなり基本的なところで「政治的にただしくない用語」を使い続けるのは、必ずしも褒められた事ではありません。

そうした「言葉の暴力」が、「肉体言語」という概念を産んだのかもしれない。とも思います。

同様の事は、正規表現って元はなんて言うんだと思ったら「Regular Expression」だったり、「正規雇用」に対する用語が「非正規雇用」だったりする時にも思います。イマサラ変えようのない事なのは解りますが、自分は「この国にはこびる反知性主義」や「学問の価値を解ってない」などの文言を見るたびに「なんか、"若者のクルマ離れ"と似てるなぁ」と思います。