理科の先生3
私大文系卒(ようはバカ)としては。
足りない機材を自腹で買っちゃう先生は、偉いと思う。保護者から集めてでも買っちゃうのも納得はできる。でも、それで「予算の増額」や、持ってそうなところへの「おねだり」に直結しちゃうのは、短絡の可能性が高いのではないかと思う。
「教育を受ける権利」てのはあんだけど、それ口開けて待ってる「だけ」てのはどうよとかねがね。「広義の教育」的に、抽象的なお題目を暗黙の前提にして、金を求める「理屈っぽい乞食」を産みゃせんかと。
芸術、文化、教育、地方の発展、、、学問の価値とか憲法上の権利etc,etc。そういうのって「バカには見えない服」だと思ってるんで。こういうと、豆がハト鉄砲くらったような顔をする人もあるかもしれませんが。
なんつうんですか、他人様は自分の背中を見て「意気に感じた」時にしか動かないもんだと思ってるので、それをムリヤリコトバにしたのが『XXの価値』だと思ってるんで*1。
いつの間にか「心意気」が抜けてコトバだけになると、集まるオカネも不足するようになるんではないかと。不足てゆうか「心意気に応じたレベル」に落ち着いてしまうんではないかと。
教育や研究てのは実益には直結しないわけで、その点、立派な「コンテンツ産業*2」だと思ってます。学問研究教育の人達に、金つかうんならそんだけの成果を出せ、と言うのは酷ですが「心意気」や「覚悟のほど」は見せてもらわんと、やっぱ寄付とか求められても出すの惜しいです。そこで「理解がない」言われましても「なんだ乞食か」と言ってやりたくなる事もあります。
だからね。「予算増額を!」とか「子供たちの実験器具が足りないなんて許されない!」とか「理系が細れば日本の未来が!」とか、「おねだり」したくなるキモチは分かるんだけど、それ「私的録音録画補償金」の時に誰かが言った「保護して欲しい」と大きくは違わないように思うのです。
こういう私大文系卒(ようはバカ)には「ほんとうの理解」はどのみち無理ですし、「心意気」で押し切るほうがリーズナブルなように思います。