デモに子連れが不快な理由。

ゲンミツには、不快ってゆうより「…あんま感心しねぇなぁ」って程度なんで、四の五の言う程でもないのだけども。デモに子連れ参加する親御さんを見ると地味に気持ちが落ち着かないので、そのワケを書き出してみます。

本質的に。デモというのは「示威」だ。「示威」は、衝突の一歩手前だ。万一の時には「直ちに健康に影響がある」。可能性は「ゼロではない」というレベルでしかないのだけれど、一応は、覚悟と備えをもって参加すべきものだと思う。

笛や太鼓で楽しげに「ウォーク」したところで示威は示威。「対話」ではなく「圧力」だ。沿道に居るのは、潜在的には賛成しても、参加するほどではないシンパ者。静謐なるべき日常を乱され迷惑に感じている傍観者。主義や主張の異なるゆえに、敵意を燃やす反対者。概ねそんなところだろう。主張もテンションも一緒の「同志」は、既にあらかた参加済。ヤジや言い合い冷たい視線、ともすれば喧嘩の一つや二つは、想定するべきことかと思う。

また隊列の中には、常に「混乱を望む者」が居るものだ。古典的なセクトの残党*1、デモを日頃の不満のはけ口と捉える者*2、「反対者」の中には、これらをカネや思想で使役したいと感じる者もあるだろう。そして「警察の警備」は、デモ参加者を守るためではない。万一の暴徒化を抑止する為にある。かねて公安が目を付けていた者、あえて道交法を犯す者などに目を光らせ、早め早めに逮捕するのが彼らの仕事だ。

これらの事どもは、立場の上下、思想の左右、主張の当否とは別のレイヤーに在る。その場に居合わせた個々の人格・およびその相性に負う部分が大きい。「軋轢に伴う混乱」〜小さな口喧嘩から数十人が走りまわる逮捕劇まで〜の多くは、偶然の出来事、飛び込んできたニュースなど、想定外の原因から発生する。事前の想定範囲が狭ければ狭いほど、カタストロフィックな結果を生みやすいのは、個々のふるまいでも同じだ。

デモ行進というのは「示威」だ。「示威」は衝突の一歩手前だ。主張やテンションの異なる人々に「圧力」をかけるためにある。自覚の有無や個人の認識とは関係なく、沿道には「圧力をかけられた」と感じている人の方が多い。彼らに「子供がいるんだ!」が通用するとは限らない。子供は、そうした場に連れて行くべきではないように思う。

つっても。可能性は「ゼロではない」というレベルだし、とどのつまりは個人的な趣味の話でしかないんだけど。「…どっか預けて行きゃいいのに」とは思う。主張に支持でも不支持でも。ネタが放射能でも尖閣でも。

*1:おそらく絶滅危惧種と思われる。

*2:おそらく増加傾向と思われる。