ホ. 文化的ビルトイン・スタビライザー

〜あるいはタタミゼとワパニーズと嫌韓流について

ジャポニズムとタタミゼ:19世紀末から20世紀初頭にかけ、パリで日本の文物を有難がるジャポニズム(日本趣味?)なる風俗が流行りましたが、その流行にノった人々を「タタミゼ」と言うそうです。ジャポニズム自体は美術史上の画期らしいのだけど、ちょっとタタミゼは「なんなのあいつら?」的なニュアンスがありそうな気がないでもありません。

アニメとワパニーズ:20世紀末から21世紀初頭にかけて、欧米を中心に、アニメなど日本のポップカルチャーを有難がる層が拡がっていますが、これを不快に思う人々は彼ら(彼女ら?)をワパニーズと呼んでいます。これは、Wants to be RockStar だの Wants to be MovieStar だのを、一個にまとめたワナビーズ(Wants to be たち)と掛けたもので、平訳すっと「なりたがり」なのですが、そこに「夢があってイイぢゃないの」的なニュアンスはありません。「きっとナニモノにもなれないオマエタチに告げるッ!!」のが近いと思います。

作用と反作用:自分は、これらはごく自然な反応だと思います。ある社会の中で文化的な多元化が急速に進む場合、平衡を取り戻そうとする「ココロの動き」が出てくるのは、作用と反作用のようなものだと思います。人間の身体が恒常性を保とうとするように、文化もまた、ビルトイン・スタビライザーを持っているものです。

若者のXX離れとゲーム脳の恐怖この事は、同一文化に属す旧世代と新世代の間でも起こります。「ゲーム脳の恐怖」や「若者のXX離れ」なんか、結構いい例だと……いいぢゃねぇか別に今時のワカモンだってアレはアレでアレなりに一生懸命生きてんだから。…たぶんw。

嫌韓流流入してくる文化が異民族だったり異人種だったりすると、さらに話が難儀になります。「嫌悪感の表明」が、人種差別や民族差別の色彩を帯びがちだからです。しかし間違えてはイケマセン。例えコトバがなんであろうと、底にあるのは「不快感」、ややもすると「アイデンティティ喪失のキョーフ」です。すんごく大げさに誇張して言うと「あたしがあたしでなくなるぅッ!」といったところです。

差別は克服せねばならないのはもちろんですが、この恐怖を、地に足のつかないリベラリズムで消し去る事はできません。ムリに口を封じれば、より酷い形で吹き出すでしょう。

2010/03/30:朝日:「原爆2個では不十分」 ネットに米州議員
【ニューヨーク=田中光】米北東部ニューハンプシャー州のニコラス・ラバッサー州下院議員(26)=民主党=がインターネットの交流サービス「フェースブック」の自分のページで、「アニメは、原爆2個では十分ではなかったことの最たる証拠だ」とコメントし、猛反発を買った。
同議員はすぐ謝罪し、ページは削除された。議員は特にアニメ批判などで知られているわけではなく、どういう文脈での発言か不明だが、ネット上では、米アニメファンらの怒りが広まっている。
地元テレビ局の報道などによると、ラバッサー議員がコメントしたのは24日。
保守系のサイトも「アニメを見たくないという理由だけでもっと日本人を殺すべきだと言っているようなもの」と批判した。
同議員は「コメントの無神経さに深く謝罪したい。公私を問わず適切な発言ではなかった」と謝罪したが、米アニメファンのブログなどでは「人種差別だ」「アニメのことを本当に分かっているのか」といった反発の声があがっている。
ラバッサー議員は、地元の州立大学在学中の2006年に初当選。現在、2期目。
http://www.asahi.com/international/update/0330/TKY201003300232.html

※元記事消滅につき、リンク先は「カナ速にゅーす」

まず、ラバッサー議員が速攻で、かつ徹底的に誤り倒しているのは、潔い事だと思います。保守系のサイトも「アニメを見たくないという理由だけでもっと日本人を殺すべきだと言っているようなもの」と批判している事から、文化的多様性に対する寛容は、米国の屋台骨にも近いものなのでしょう。問題は、なぜそこまで酷い台詞を吐く前に、より穏当な形でアニメ〜あるいは外国文化に夢中になっている子供たち〜に対する違和感を示せなかったのか。だと思います。

自称リベラルに対する不信感について
リベラル・ダイバーシティ(文化多元主義)・グローバリズム…どれも美しいコトバですが、んじゃ明日から新大久保に住めって言われたら、平気で住める人と、ちょっと尻込みする人の割合は、まぁ、良くて半々でしょう。

それは適応力の問題であるかも知れませんし、あるいは加齢の問題であるかも知れませんが、理由がなんであれ、新大久保や歌舞伎町で、落ち着けない人は落ち着けないものです。美しいコトバは結構だが、Not in my backyardで頼むよ。という人が半分は、居るものです。これは、属人的なものとは限りません。多くの場合、一個人の中にも「半々のキモチ」があるものです。

仮に。自分の中にそうしたキモチがある時に、それを認められずに、美しいコトバで塗り隠している人があるとしましょう。さらに、押し殺していた「不快感」が、その人の口を突いて出る瞬間が来たとしましょう。その時に、彼や彼女のコトバは、より一層激しい差別の色を帯びる事になってしまうのではないでしょうか。

自分が、いわゆる「リベラリスト」に対し、半信半疑の姿勢を取るのはこの為です。リベラリズムは好物な方ですが、個々のリベラリストは、必ずしもそうではないです。あの思想には「素の自分を認められなくなるリスク」があると思います。